室人は哲学部に転部できることで化学実験をもうしないでいいという解放感もあったが、そうは行かなかった。 新設された化学哲学科は化学実験の経験的事実に基づいた認識論を問題にしていた。 認識論では時間と空間がしばしば重要に事柄であった。時間の中で出会えること、空間の中で出会えることが認識を形成させる。時間と空間の形式を超えた物を人は認識できないと言われており、時間性と空間性は感覚よりは高位な先験性があると考えれている。 しかしながら、耳が聴こえるから音はその順序で理解されることで音楽となる。音の順序は時間性である。また、目が見えるから机の上に物体がありそれがリンゴであることを知ることができる。聴覚と視力なくして時間と空間に広がる認識もあまり意味を成さない。 認識論が成立するためには聴覚と視覚が必要であろうが、嗅覚はどうであろうか。嗅覚は匂いという外からの情報を認知する機能であるが、犬などの動物に比較して人間では退化した認知機能である。それがゆえにこれまでに認識論では嗅覚に基づく匂いの認識論は無視されてきた。では、匂いを認識論として研究するためには何が必要であるか。それが化学である。化学的手法で匂いを調べ、匂いが作り出す認識を研究し論理を構築せねばならない。 こうして化学哲学はまさに科学の進歩による化学的方法論が可能になったことで生まれた。室人の大学がそれまでの産業育成への迎合や少子化に対応した営利事業化への反動と反省から哲学へと回帰するために学長が変わったということは室人にとっては大学で無駄な時間を過ごすことなく社会に出ては決してできないよい経験の場が与えられたということで幸運であったかもしれない。
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