室人が建物に張り巡らされた暗い長い長い迷路のような廊下を行くとその教官の部屋があった。ノックして部屋に入るとそこは作業室のようであった。 そこにはガラス細工などの工具やガラス器具が机に散らばっていた。 教官はガスバーナーヘルメットを被り溶接をしていた。辺りに強い閃光が飛び散っているのが見えた。教官は閃光を見ないようにして室人にそばの椅子に座って待つように言った。 薄汚れた古い格子ガラス窓の外は冬の日の夕暮れであり寒い風が枯れ枝を震わせていた。しばらく外を見ていると、終わったよと言う教官の声がした。
その作業室の奥には一回り小さい部屋がありそこに教官の机と実験台があった。実験台には実験アングルが組まれていて、ガラス管が張り巡らされるようにクランプで固定されておりコックで繫がれていた。ガラス管にはバーナーで封管した個所もいくつかあった。教官は気体反応の実験をしているようであった。近くに鳥かごがあり一羽カナリアが見えた。有毒なガスが発生して漏れ出した時にいち早く危険を知るためと思われた。 教官は机から一つの中太のガラス管を取り出して見せた。その中には蚤が一匹入っていた。 蚤のサーカスと言うのを聞いたことがあるだろうと室人に言った。 蚤というのは上から何か大きなものが迫って来るのを感じると飛び跳ねて逃げようとする、だから、こうしてガラス管に入れて、手で転がすと、覆いかぶさって来る手から逃げようとして飛び跳ねる。それを毎日繰り返していると、ついにある日、蚤は飛び跳ねることを止める。こうして飛び跳ねない蚤は一本の糸の上を綱渡りするように調教される。蚤は後1回跳べば逃げられるのだがその最後の1回の機会が永遠に蚤からは失われてしまったということだ、と教官が言った。室人はガラス管の中の蚤を見て面白いなあと思った。
教官が室人にガラス細工を見せてやると言った。隣の部屋に行くとバーナーの前で教官はガラス管を熱し始めた。ガラス管が赤くなったが火力が弱いようで溶けるまでは行かない。その時に足もとの鞴を踏みながら空気の流れを導入して燃焼を促進させた。忽ちに強くなった炎がガラス管を溶かした。 教官は飴のようになったガラス管を伸ばしたり、膨らませたりして加工してみせた。教官が独り言のように言った、人間が生きているということはちょうどこのバーナーの炎のように生命の火が燃えているようなもんだ、では鞴は何か、生命の火にやる気とか生きがいという空気を送って燃焼を促進させる。燃焼を促進させることで切れなかったガラス管も溶け切れるようになる。人間はただ生きているだけでは何も変わらないし何も起こらない、何かを起こしたり変革していくためには生命の燃焼の促進が必要になる、この鞴のように。
室人は教官の話に興味を持ったので、それから毎日その部屋に来てガラス細工を学ぶことになった。そしてビーカーやフラスコを作ったりしていた。 そうこうしていると、ある日にガラス器具に対する恐怖が消えていることに気が付いた。昼のグループ実習でもガラス器具を落としたり倒したり壊すことが無くなっていた。
転部の日が近づいて来た頃に、その教官が室人に言った。自分も新しくできる化学哲学科に移動になる、同じところになるから今後も頑張ろうと。
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