映画館の入っているビルに大きなカフェがあった。室人は映画を見た後にこのカフェに彼女と来ていた。 エアコンがガンガンきいているのに加えて白い大きなシーリングファンが風力発電のようにブルンブルンと回っているので少し肌寒く感じられた。
店に客は少なく静かな店内にサウンドトラックのモアがゆっくりと流れていた。そう言えばこの店の入り口にもモアという2文字が並んでいた。ウエイトレスが注文を取りに来た。室人がクリームソーダと言うと可奈子も同じものと言った。
ウエイトレスが行ってしまうと二人の間にまた沈黙が訪れたが、モアの甘い旋律のみが静かに流れていた。モアはとても綺麗な曲で彼は気に入っていたが、この曲がヤコペッテイの「世界残酷物語」のために作られたサウンドトラックであることを知っていたので、このメロデイに対照的な残酷な映像の数々が想起されそうになると彼は不安を覚えた。
今こうして白鳥可奈子を前にしている自分の状況も同じように思えてきた。自分は審美的探究に満足することで心の安住の場所を得ようとしているように思えるが、この現実がモアで彩られるような表の世界であるとすれば必ず裏の世界があるに違いないと思える。裏は絶対に無いと自分に信じ込ませようとしている自分に彼は不安を覚え、彼女に対して彼自身を消極的にさせた。彼は彼女と会話を始めることで心の扉は開かれ、彼はコミニユケーションにより彼女を認識することで彼の前に存在している彼女に対して安心感を持つことになるのかもしれない。しかし、彼が踏み込めないのは踏み込むと言う能動的なアクションのもたらす満足感より、自分の前に座っている彼女が次の瞬間に彼女ではなくなってしまうことのほうを恐れた。失うことの恐れと果てしなく広がる暗黒のような裏への漠然とした不安が審美的な探究の中において憂愁の中において変わらずに存在し続ける彼女を見出すことにより充実感を感じていた。そんな彼の態度はよそよそしく冷たいものに見えたかもしれなかった。
可奈子は室人が審美的なことを求めていることはすぐにわかったが、彼が自分に対して恋愛と言うストーリーを築いていく積極性はないと見抜いていた。この人は何て熱くなれないんだろうと内心思った。しかし、二人は大人ではなく高校生だった。そして彼女が彼とここに来ているのは大人のするお見合いではなくデートであった。彼はイケメンであり、彼女にとってそれは重要であった。もし、彼がイケメンでなくて審美的なことを求めているだけだったら彼女はデートには来なかったであろう。彼女も実は彼に対してこのデートで審美的なものを求めていた。しかし、室人ほどは強く求めているわけではなかった。彼にとっては審美的要求は彼女をイデアまで外挿して昇華させる志向性であったが、彼女にとっては彼の彼女に対する審美的要求による眼差しが客体としての自身の美を認識すると言う自惚れと言うナルシズム化であった。
彼女が相手の視線に対して自らを客体として差し出すと言うプロセスにおいて室人のイケメンとしての審美的要素を破壊したいという少しサディックな感性を経ることによりナルシズム化していたが、破壊というプロセスが彼女を神経質にしていたがそのことが彼女を室人の憂愁のほうへと引き寄せていた。
ウエイトレスがクリームソーダを2つ運んで来た。そのメロン色を志向して作りだされていたメロン色はこのカフェの清楚な現実離れした空間の雰囲気と調和していた。可奈子はクリームソーダを見ると子供のように嬉しそうに笑った。彼女の笑いは皮肉っぽい冷たいものではなく明るいものであった。可奈子の唇にアイスクリームの白さが丸く残っていたが、大きな一粒の真っ赤なチエリーの柄を掴むと上向きに口にパクリと運んだので子供ぽく見えた。彼女は彼を見て照れを含んで笑った。そして美味しいとポツリと小声で言った。
室人は彼女に何を話したらいいのか戸惑っていた。文化祭の夜に彼女と燃える火を見ていた時とは違っていた。 その時、店内の隅に座っていた一人の老紳士が彼らの席にやってきた。男は「あんたたちは高校生だろう、、、先ほど名画座でいただろう、、、あんたたちみたいな若い子があの映画に来ているのは珍しい」と言った。その男も名画座で見ていたので二人を覚えていたようである。男は自分が二人と同じぐらいの年齢の頃には戦争中であったと言った。終戦になるのが数年遅くなっていたら彼も戦場へと行く運命になっていたから死んでいたかもしれないと自分が命拾いしたように言った。それから、様々な話をしてから今の若い人はいい、自分の若い頃は国防色の一色で社会において各人の将来の目標が国防と関連づけられる選択肢しかなかった、と言った。
可奈子も室人もその男が自分たちのテーブルに来て勝手に話を始めたことに少し当惑もしたが、二人の間に話すべき会話もなかったので男の話を黙って聞いていた。 しばらく昔話をした後に、男は言いたいことをすべて言って満足したのか、「じゃあここいらで失敬」と言って店を出て行った。
男が出て行くのを見送ると、室人と可奈子も店を出てバスに乗らずに街中を歩きながら帰宅することにした。外は天気がよかった。室人は取りとめのない描写的なことを独り言のように話していたが、可奈子は黙っていた。
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