室人の若い心は昨日より今現在そして未来へと向けられる定めにあった。だから、今日の放課後に白鳥さんに少し意識が向けられたこともその日の夕方には別の意識で置き換えられ、翌日になれば明日起きるであろうことに意識が向けられていた。一日が過ぎ、二日、そして一週間が過ぎる頃には新たなる契機が彼に作用しない限り、一つの事象は記憶として保存されるが、他の事象とともに無造作に保存されてしまう。やがて意識の地平からその事象を捜し出すことすら難しくなっていく。だが、彼の意識の地平へと彼女を呼び戻す契機が訪れた。
それは授業中のことだったと思う。最近席替えがあり、室人は廊下側の壁際の一列目の前から3番目の席に座ることになった。そして彼女は3列目の一番前の席になった。こうして、彼が黒板の方を見ると、いつも彼女もその視野に否が応でも入ることになった。授業というのは退屈なものである。どんなに人間の集中力が持続しても脳の認識力には限界があり、あくびが出たり眠気と言った認識することを妨げるヴェールが認識力を覆って持続力を低下させてしまうものである。人間はロボットのような機械ではない、動物である。機械は疲れを知らないが、人間は動物であるから認識力を持続するためのエネルギーが不足してくると疲れを感じる。室人が神経を集中して黒板を見ていることが彼がこの教室で席に座っている存在意義であったが、授業の退屈さを何とか補おうと認識力の持続に必要なエネルギーの回復をせざるを得なかった。異性というのは人間の動物本能を興奮させるという意味では低下した認識の持続力を刺激する作用もある。だから室人は授業中に黒板に向けられるべき眼差しを彼女に向けてしまった。彼女の横顔はきれいで、ショートカットヘアは少し栗色で柔らかそうに見えた。彼女は浅黒くみえた。天気は曇りだったので教室が暗かったせいかもしれない。光の減弱した世界が色彩を奪い、教室内をモノクロームにしていた。暖かな情感は無く彼の中で混沌とした漠然としたモノクロームな感情が解離集合を繰り返していた。冷たい虚無感というものではなかった。少なくとも彼女に関しては。色彩が失われた風景において最後の情感がそこに集約されていくかのように彼女は存在していた。ふわっとした彼女の髪の茶色がモノクロームの世界で邪気を含んで彼を悩ませた。そして、ある瞬間に彼女を美しいと思い好きだと感じた。その時は数学の授業で、教師は正三角形の概念を教えていた。古代ギリシャ人は正三角形のイデアを発見した。科学技術が進歩がもたらした物の恩恵に囲まれた生活空間に暮らしている現代人にとっては正三角形のイデアはピンと来ないだろう。パソコンの画面上に描かれた正三角形は見た目は完全な正三角形に見える。しかし、ズーム機能で拡大するとピクセルの粗が見えてくる。つまり、画面に見えているのは完全は正三角形ではないのである。ここに至って初めて現代人は正三角形のイデアが理念であることに気がつくが、規格化された物という環境に暮らしていなかった古代ギリシャ人にとって最初は正三角形はそこらで拾ってきた棒で地面に描かれた不揃いなものに過ぎなかったが、彼らはその地面に描かれた多くの不揃いな正三角形から抽象的な真の正三角形のイデアの存在に至った。そこには、現実世界を超えるという意味でイデアに対する憧れと情熱も確かにあった。
室人が彼女が美しく見えたのは、彼女は一番前の席だったので、黒板の方を見るときはどうしても、顔を少し斜め上前方に向けることになる。それで視線を少し上に向けることで、彼女との位置関係が彼女の美しさに神秘的な感じを与えることで彼の中に白鳥可奈子を美のイデアに照らして現実世界で許容できる女子の存在にしていた。
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