原始的蓄積を社会が必要としていた。室人の時代にはすでに戦後に出来上がった社会インフラは存在していたが、経済大国化するための原始的蓄積は不十分でありこれからであった。古い木造家屋の町並みを刷新できるほど原始的蓄積はその当時無かった。 貧しい生活環境に比較してそれ以上に働いて生産性を向上させてもそれがすぐには当人にすぐに返って来る状況には無かった。古い慣習はまだ元気だったから、お金が万能にはなっていなかった。古い慣習は原始的蓄積を増やすことに大いに貢献していた。親のため家のために自分を犠牲にして働く者は普通であり、また生産性向上の過程で多くの者が過剰労働の犠牲となっていたが原始的蓄積はその犠牲の上に確実に増えていた。
自己犠牲がなぜニヒリズムになっていくのか?
例えば、江戸時代は封建制度の身分社会だったからすべての人間が生まれたときから自由を束縛されて自己犠牲を強いられるように生きていた。すべての人間が等しく自己犠牲を強いられるような社会ではニヒリズムは起きない。 皆を同じだからだ、隣近所を見ても似たり寄ったりだから自分だけが不幸だとは思わないだろう。人間とはこのようなものだと物心つく頃から思い成長してそして死んでいく。 しかし、室人の生きている時代は江戸時代に比べたら個人の自由はあった。そして、その自由を謳歌できる者とそうでない者がいた。仕事の過労から身体を壊して病気になる者も多かったし、日々のストレスから酒に溺れて身体を壊す者も多くいた。 まだお金は万能ではなかった、つまり金では買えないと思えることが多々あった。お金で済ますことができない社会というのはいい意味では人情味があるが、金で買えないことを相手からも要求されるということだ。
お金はニヒリズムを隠して見えないようにしてくれる。お金が万能の現在の日本はそういう意味で室人の時代よりはニヒリズムが見えないようにされているので深刻ではない。 お金が万能になったのは原始的蓄積ができたからだ。社会に存在する原始的蓄積がゆ漠然としたゆとりを感じさせニヒリズムの起きない状況にしていると言える。
男女の恋愛も違っている。室人の時代には流行歌も男女の失恋を歌ったものだけだった。失恋の歌が象徴しているものは、言い換えると社会の中で夢破れた者たち、原始的蓄積の犠牲になった者たちへの刹那的な慰めだろう。刹那的な慰めでも無ければやっていられないと言うことだろう。 そのことこそがまさにニヒリズムである。
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