室人は気がついた。意識されたニヒリズムの大きなうねりが当時の人々、特に若者に押し寄せてきていたことを。意識されないニヒリズムというのはいつの時代にも必ずある程度は存在していた。しかし、意識されたニヒリズムがこれほど大きなうねりとなって津波のようにニヒリズムが押し寄せてきた時代はあったであろうか?
日本の戦国期は日本史の中でも特殊な時代である。日常茶飯事の裏切りの横行のせいで徹底的な人間不信、社会的に意義があるとか権威があると認めていた価値が簡単に否定され破壊されるせいで何も信じられるものはないという意識が社会に充満していた。
戦国時代の真っ只中で、誰も信用できないし、何もあてにならないと言う一種のニヒリズムがこうして頂点を極めることになる。最初は一人の主として百名に満たない人数とともに城に立て篭もる。城の外には信用できない世界、つまり敵が住んでいる世界が広がっている。城は敵が住む世界との間を隔てる障害物であり攻められないように険しい山上に築かれそこに篭っていつも外の敵の状況を見張っている。しかし隙があれば攻め込まれるだろうし、逆に外に隙ある者を見つければ、獰猛な猛獣のように城から出て弱った獲物に襲いかかる。
城の主は、頭とか大将とか、後には殿とか呼ばれるが、敵は外にだけいるわけではない。城に立て篭もる百名の者も実は信用はできない。裏切ったり寝返ったりするので信用できないからだ。城は外の敵に対して建前では運命共同体であるが、城の主にとってはそこは決して安らぎの場所ではない。城は敵が住む外の世界を遮断する障害物と言ったが実はそれはできない。なぜなら、城に住む百名の心まで完全に外から遮断することはできないからだ。必ずや外の世界に通じる者が出てくる。こうして、城の主はある日の夜、就寝中に数名の家来の刀によってメッタ刺しにされ絶命するということも珍しいことではない。 外には敵、内には信用できない家来と言うことになると、城の主が信じることができるものは何かと言えば、それは自分自身の力だけだろう。誰もが力だけを信じる弱肉強食の中で生きている。
では、城の主はそこまでして生きようとするのだろう。
この弱肉強食の世界では人間は何と脆弱に見えることか、人間の命は動物の命のようにはかなく思えるだろう。だから、城の主は動物のように自分の血を残すために戦って生き残ろうとする。外の敵も同じように考える。だから、自分の子供を人質として交換する。お互いに相手のもっとも大切なものを担保にする。 しかし、戦国の世に意識されたニヒリズムは存在しなかった。生存競争の過酷な日常が人間の反射神経を鍛え抜いたせいで意識はいつも後からついて来るものになっていたからだ。
ところが、室人の生きている時代には意識されたニヒリズムが社会に充満しようとしていた。 戦国時代のように直接命をかけた生存競争はすでに過去になっていたが、社会は発展して経済規模が拡大しようとしていた。経済を急速に発展させるためにはそこで多く人間が社会発展のために否がおうでも投入されてそのシステムに従わざるを得ない。その段階で落伍する者や個人の自由や楽しみを犠牲にする者も多々いる。社会発展のための生存競争に勝ち抜いた勝者と言えども振り返れば楽しみや自由を少なからず犠牲にしてきたと感じるであろう。こうして、社会の勝者も敗者も自身を振り返ったときに感じる虚無感は共有される。共有された虚無感が意識されたときにはじめて意識されたニヒリズムとなる。
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