人間とは新しい生活に少なからず夢と希望をもつものである。それが自分の望まないものであっても人生の場面が変わるという意味で、そこに今までの自分を変えてくれるものがあるだろうと思ったりする。往々にして悪い方向の予感よりは良い方向の予感を持ったりする。それが希望でありそこに描かれる未来像が夢と呼ばれている。
ある一つの環境が用意されていたとする。その環境で長く生きている人間にとっては表も裏もすべてを知り尽くしてきたので、そこに存在するものには新鮮味は何もないと思えるだろう。
しかし、新しくその環境に来た者、つまり新入生と言ってもいいが、新入生にとってはすべてが新しく思えるだろう。その環境を知らないから新しいと思えるのである。長年にわたり多くの人間の手垢にまみれて虚無の悪臭すら匂ってくると思われる事柄も新入生にとってはそのようには見えないだろう。それは知らないからだ。知らないというのは無知とか未熟とか言う言葉にも関係している。若年者に向けられる言葉でもある。若者は思慮が足りない行動をするとよく世間では言われる。
しかし、なぜ思慮が足りないと思われるのか?それは彼がその環境をよく知らないで行動したからだということである。思慮すべきことが何かというのはその環境によっても変わってくる。だから、その環境を知らない新入生は思慮しなかったということである。 しかし、ここで重要なことは新入生が行動を起こしたということである。誰もがその慣れ親しんできた環境で暗黙の了解のようになっていた事柄に対して新入生が彼なりの思慮で取り組んで行動したということだ。そして、もしかしたらその行動がその環境を改善したり新しい方向へと発展させる起爆剤になるかもしれない。若者が社会の宝であるというのはそういう理由である。
室人も新しく始まる学園生活に希望を持ってその高校入学してきた。
しかし、そこは入学して早くも思っていた場所とは違った雰囲気であることに彼は気がついた。その高校は虚無が蔓延していたからだ。室人も人のことはとやかく言える立場ではない。中学3年の受験勉強などをしながら虚無感を実感していた。虚無感から来るニヒリズムと言う病気は彼自身の心の中でも確実に侵攻していた。
しかし、彼はニヒリズムと言う病気にずっと抵抗していた。ところが、高校では誰もがすでに虚無感を漂わせていた。虚無感は感染する。お互いに虚無を隠すこともなく生活している。「ニヒル言うゾー」と言わんばかりに虚無どデカタンスをあたりかまわずに撒き散らしている。ダレた服装でダレた生活をしている。男子生徒は無気力、無関心、無感動の三無主義か、不良化している者が多かった。女子生徒はどうかと言うと長いスカートでだらしない格好であばずれのように振舞っていた。
室人はそんな環境で自分は少なくとも「ニヒル言うゾー」になってはおしまいだと思った。しかし、自分の外からも内からも押し寄せてくるニヒリズムの波にどうすればいいか迷ってしまっていた。
|
|