室人はサナエと別れた後、校門を出ると一瞬立ち止まり振り返って見た。そこに彼にとって今後は過去のものになろうとする場所、つまり中学校の建物が存在していた。然したる感慨は無かったが、過去というのは自分の後ろにいつも存在しているのではないかと思えた。 もうここに来ることはないと思った瞬間に学校は彼にとって過去の一風景へと遠ざかり始めた。
人間とは前に向かって歩く。マイケルジャクソンは別にして(笑い)。人間にとって前に未来がある。そして後ろに過去がある。だから、人間は前に向かって歩いていく。人間の一生を生まれた瞬間から死ぬまでもし仮にビデオに録画することができたら人間の姿は前に向かって這うことから始まり前に向かって歩いていく多くの姿がそこに記録されるだろう。 後ろに向かって歩く姿は出てこない。ところが、そのビデオを逆送りにすればどうだろう。後ろに向かって歩くその人の姿ばかりが再生されるだろう。つまり逆送りとは過去に向かうことを意味する。人間の一生がビデオと違うところは逆送りはできないということだろう。人は恐怖や危険に直面して後ろに後ずさりすることがある。この時、人の前から危険や恐怖は来ている。前とは未来である。未来から向かって来るものを本能的に避けようとして過去である後ろに後ずさりするのである。こうして一生を前を見て歩いていてもその行く着く終着駅は死である。それはわかっていても前に向かって歩くしかできない。マグロなどの回遊魚が泳ぎ続けないと死んでしまう。人間はどうだろう。前を向いて歩くことを止めたときに、生物としての人間は生きていても、人間的には死んでしまったということであろうか。歩くこともなく座って死を待つだけということか。それが怖いから前に歩き続けるのかもしれない。
それでは、室人の現存在の初期の終わりはどうであったであろうか。恐怖からの後ずさりではなく失われ行く現存在へのノスタルジーであろう。前から来るものが後ろ過ぎ去ることに対する人生場面のコマ送りではなく、漠然としたもの、自分の目の前に開けている風景の地平がいままでの風景とは異なる方へと変貌を遂げることに対する躊躇でありささやかな抵抗が初期の終わりと言う現象であろう。初期の終わりと反復の関係はどのようであろうか。過ぎ去って行く個別の事象であれば過去へのまなざしからの反射が未来へと向かう反復の投影となって返って来るが、初期の終わりは個別事象ではないのでまなざしは何に向けられるのか?そして、反射としての反復はどのように返って来るのか。室人はその答えが見つからなかった。
こうして、室人は再び前を見て歩き始めた。 しばらく後に川沿いの道を彼はトボトボと歩いていた時に、遠くに虹が出ているのを見た。虹を見ることは最近はまったく無かった。いつから見ていないかも覚えていない。
“Somewhere over the rainbow”
室人は虹の向こうにかすかに希望を感じ取っていた。彼女とまた会えると思うと虹の向こうで彼女が微笑んでいるような気がする。何かいいことがあるかもしれない。これが希望というものだ。
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