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作品名:反復の時 作者:くーろん

第24回   24
その頃、零人を学校で見ることはほとんど無かったが、彼の母親が病気だと言ううわさを校内で可奈子は聞いていた。
零人が私生児であり母がいて親一人子一人の生活をしているということも後になって可奈子は知った。そして、彼の母親が白血病で余命いくばくであるということも。
2ヶ月して零人の母親が亡くなった。

零人は母親を愛していたようで、母親の担当医師は母親の命を助けてほしいと何度も何度も零人から懇願された。担当医師が日毎に悪くなっていく母親を見て、最近開発された白血病治療薬だけしか彼女の命を救える方法はないと最終判断した。

白衣の医師は零人を前にしてデスクに座って、三本の注射アンプルを見せた。そして、母親の命を救えるのは現在この3本の混合カクテル剤の注射しかないと零人に言った。零人は混合カクテルをすぐに母のためにやってくださいと言った。しかし、そのカクテル剤は非常に高額であった。零人にも母親にも支払える金額ではなかった。3本のカクテル剤を手に持った医師がどうしますかと再度訊いたが、悔しそうに見つめているだけだったが、3度目に医師が訊いたときには何も言わずに俯くだけだった。

こうして彼の母親が亡くなったが、母親の臨終ではこんなに嘆き悲しんだ少年は見たことがないと周囲の者が言うほど悲しんだ。

可奈子は学年を代表して学年主任の教師と通夜に行った。そこは駅前の裏側から少し歩いた寂れた所で古いアパートの2階が自宅だった。遠縁の親戚が一人来ていて母親の知り合いが数人来ていたが、花もほとんど飾られることもなく閑散としていて、小さな母親の写真経が置かれているだけだった。

零人は母の棺の横で黙って下を俯いて畳に正座しているだけで何も語らなかった。帰り際に先生が「早川、気を落とすな、皆待っているから、早く元気になって学校に来いよ」と言ったが、彼は何も答えずに下を俯いていた。可奈子が帰ろうとしたときに、配達のトラックが来て、大きな場違いに立派な花輪が届いた。母親はある大企業の社長か会長の愛人であり、母親宛の花輪であった。
可奈子はアパートのほうを振り返って「早川君、かわいそうな人」と思った。

皆帰って夜が更けて、零人は一人になった。今夜は母の棺の横で寝ることにしていた。明日には火葬場にこの棺は焼却されるので、彼にとっては今夜が母と一緒にいる最後の夜ということになる。彼は悲しみで憔悴していたが、今は何も考えることなく、畳の上に横になって天井を見ていた。窓はカーテンを引いていなかったが、部屋の中は外にあるネオンのせいで薄暗かった。近くにある場末のスナックで酔っ払いがカラオケを歌っているのが騒音のように聞こえて来る。その近所で犬が吼え続けている。しばらくして、外で誰かが「うるさい」とか叫んで口喧嘩をしている。しばらくして、スナックの窓を誰かが閉めたようで騒音が突然止んだ。それから、飼い主が犬を玄関に入れたのか犬の鳴き声も小さくなり、餌でもやったのか突然静かになった。

再び夜の静寂が訪れてからしばらくして、零人は薄明かりの部屋で起き上がると母の棺と横の大きな花輪を見た。そして「やはり来なかったか」少し期待したが残念という気持ちになったが、それ以上の気持ちは起きなかった。彼は父親とは一度も会ったことは無かったし、関わりも無かったので、いつの頃からか父親のことは考えないようにいつも心がけていた。しかし、今夜は花輪が来たので、ひょっとしたらここに父親が来るのではないかと少し期待していた。しかし、来なかった。
彼は窓際に行って外を見た。深夜で外は誰もいないし車も通らない。静かな夜である。

見上げると屋根と軒に挟まれた小さな白けた夜空が見えた。しかし、そこに星が一つ光っていてかすかな光をこんな寂れた場所にも投げかけていることを見ることができた。

零人は棺のそばにもどり横になった。しばらくして彼は眠った、そして夢を見た。
彼はこの部屋にいた。まだ子供だった。母親が朝食の支度をしている。彼は窓から外を見ている。こんな朝早いのに、チンドン屋が来て、十八番の「美しき天然」を演奏しながら外を巡回している。母親が零人にご飯できたから来なさいと言っている。チンドン屋はやがて通りから見えなくなって「美しき天然」も遠ざかっていったので、零人が母のほうを振り返った。彼は母が当然そこにいると思った。しかし、母はいなかった。そこで、彼は夢から覚めた。
静かな早朝で外はまだ薄暗かった。彼はその時初めて母はこの世にいないということを認識した。
こうして出棺の朝を迎えた。


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