室人はクリスマスの夜に可奈子と別れて以来悩んでいた。 彼は思った。 彼女はそそり立つ高い山の頂で風に向かって腕を広げて立っているようなものだ。 彼女の後ろには暗い絶望が果てしない奈落の底へと続いており、彼女を暗黒の女王として迎え入れようと誘っている。 そして前には明るい希望と夢を思わせる未来の世界が彼女に手を差し伸べるように広がっているこの絶妙な平衡棒に美少女のように立って生きなけらばならないという運命こそが彼女にかけられた魔法である。 彼は彼女をその魔法を解いて救ってあげることができるのだろうか、つまりバージンベルトを外すことができる、それができそうにないと思えたからやはり彼女と結婚しないほうがいいのかなと思ったりして悩んでいた。
でも、彼女の笑顔やしぐさを思い出し、そして彼女のピアノ音色を思い出すと、彼女への思いには断ち切れないものがあり、しばらく彼女と会わないでいると、彼が彼女にかかった魔法を解いてあげることもできるのではないかという漠然とした自信がわいてきてもいた。
そこで、彼は彼女に会うためにケータイをしたが、つながらない、どうしたのだろう、彼女にも何か心境の変化が起きたのだろうかと急に心配になった。 土曜の夜遅くやっとケイタイが彼女につながった。
室人は彼女に「どうしていたの」と訊いた。
可奈子が言った「今起きたばかりで薬を2錠飲んでパジャマでベットに横たわってからどのくらい時間が過ぎたのかも忘れたように寝てしまったわ。ベットに入った時は確かに昼の太陽が部屋をまぶしいぐらいにしていたのに、目が覚めたときは部屋は暗かったのよ。私、窓はカーテンを引かずに寝入ったので部屋の暗さがすでに夜であることに気づいたの。枕元の時計をちらりと見ると夜の11時をまわっていたわ」
そこで、室人が今週はどうしていたのと訊いた。
彼女が言った「今週はピアノの仕事で港に行ったわ。そこであなたも知っている中学の同級生にもそこで会ったの。それからその人のヨットに乗って海に行ったら潮風も寒かった。そのせいで昨日から風邪をひいたようで熱もあり、のどが焼けるように痛いのよ」。
「白鳥さん、今部屋で何をしているの」と室人が訊いた。
彼女が言った「部屋の真向かいにあるビルのネオンサインの光が差し込んで部屋を薄暗く照らしているのをずっと見ていたの。家電メーカーのネオンが外にあるのよ。夜はカーテンなしでは明るすぎて寝られないけど、ネオンの最後の文字の蛍光管が切れかかっているので、私のいる部屋の壁に時々光の陰影ができるのを見ていたの。それから、パジャマを引きずるようにベットから出ると冷蔵庫を開けレモンソーダの缶を取りに行ったのよ。一気に流し込んだレモンソーダは焼けたようなのどに気持ちよく熱を冷ましてくれたわ。ソーダの続きはベットに行き脚を投げだして飲んでいたの。その時、枕元であなたからのケイタイが鳴ったのよ」。
彼女は突然「冷たいレモンソーダがもっと飲みたいわ」とケイタイで室人に言った。
しかし、そのとき室人はこんな夜遅く可奈子のためにレモンソーダ1本を買ってこの部屋に届けるのはばかげたことに思えた。彼女とぼくたちの将来とかもっと重要な問題を話し会うほうがレモンソーダ1本よりもはるかに重要であると思えた。レモンソーダ1本などは取るに足らぬことであると思った。
彼が将来のことなどを話し始めたときにそれをさえぎるように「もう、、、、、ケイタイでかけてこないで、、、、、」と可奈子は少し悲しそうな声で言った。
室人は少しあわてたが、可奈子との会話がその後も続いたのでその言葉に鈍感になっていた。
彼女が急に無口になったので室人が「どうしたの今何をしている」と訊いた。
「私、柱にもたれかって、夜空を見ているの。そしてお星様を数えているの。一つ一つの星があなたとの思い出を語りかけるようにきらめいているわ。あなたは優しい人、いつもありがとう、でも、もうおしまいにしましょう」と言って言葉を切った。
その後すぐに「あのネオン、明日には修理に来てくれないと落ち着いて寝られないわ」と彼女が言った。
それが彼女のお別れの言葉だった。
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