可奈子が埠頭にあるクルーズ事務所に立ち寄って今日の仕事の手続きを済ませて外に出るとすでに3時半であったがまだ陽は高く感じられた。 駅へと続く埠頭から伸びた歩道には人通りはなく一人でツカツカと歩き始めてそれほどしない時に、左にテーブルとイスを出したカフェがあった。 そこに彼が一人でラフなスタイルで座って足をイスに投げ出してビールを飲んでいた。 可奈子は下を向いたまま彼の前を通り過ぎようとした。
そのとき「おい、白鳥、通り過ぎていくのか」という彼の少し怒ったような声が後ろで聞こえた。
可奈子は振り返ると彼のほうに歩い行き彼の顔を覗き込むとそこには怒ったような呼びかけの声とは対照的な彼の甘いマスクと笑いがあった。 彼は少し酔っているのか赤い顔をしていた、そして「十年ぶりの再会に乾杯!」と少しふざけた調子で言うと瓶をテーブルにドンと置いた。 「早川君、だいぶ飲んでいるけど大丈夫?」と可奈子が少し心配そうな声で訊いた。
零人は立ち上がると可奈子に言った「今日は夕方から新郎の独身最後の夜を祝って、友達が集まって飲み会があるんだ。今夜は徹夜で飲んで、明日には二日酔いの最悪の花婿さんを花嫁に送り届けることになる。でも独身最後の夜はやはり人生最高の楽しい日にしなければね。ところで、飲み会にはまだ時間がある。久しぶりにここで再会したんだから、もしよかったら少し埠頭のほうを散歩してみないかい」。
可奈子は街でショッピングをして帰宅するつもりだったが、特に予定はなかったので、彼に付き合うことにした。 こうして二人が並んで歩いていると中学の頃に初めて出会ったときのことなどが思い出され、こんなふうに並んで下校したことともあったと気がつき、可奈子にはその頃の自分の生き方が鮮やかな色彩とともに脳裏によみがえってきたのがわかった。しかしながら、こうして歩いていても可奈子も零人もまだ若く、人生の折り返し地点を過ぎてはいなかったので、過ぎてしまった時間の中に取り残されてしまった自分を見出してメランコリーにはなっていなかった。 つまり、現在進行形によって昨日が昔であったように今日の出会いを経験していた。そして、それは幸せなことでもあった。人生は反復できるものとしてそこに二人の前に置かれている。しかし、そうは言っても過ぎた時間は毎日起きたささやかな様々な出来事が堆積して可奈子をを変えているという現実もある。そのような堆積を仮に取り除いた過去の自分に戻って話しがしたいと思うにはまだ早い。可奈子はこの現実をどのように受け止めるべきか少し迷っていた。
そして、可奈子は長い間会っていなかった昔の男子同級生に対して最終的には自分らしさによってこの現実に対応するのが素直でいいと思ってそうすることにした。 可奈子の性格は同性に対しても異性に対していつもどんな場面においても自分は競合的であるべきであると自分に言い聞かせていた。
競合的というのは対抗意識を燃やすとか敵愾心を持つということにもつながるから一般的には他者に接する心のあり方としては良くないあり方であると思われがちであるが必ずしもそうではない。競合的であるがゆえに他者のことがよくわかり相手を理解する気持ちも出てくることがある。同情心も起きたり親切にできることもある。 一方の競合的でないというあり方はマイペースとか言われるあり方であるが、他者と競合的であることを最初から諦めたり、そういう場面が来ると回避するのがいいと思ったりしているので、争いの心は確かに起きないからいつも平静であるかもしれないが、逆にそれは他者に対していつも無関心であり続け、自分のことしか考えない、そして自分のことだけをさんざんに主張した後は他人の話はまったく聞かないというあり方になりがちである。 そういうわけで可奈子は零人と並んで歩いていたが、競合的な心が芽生えてきた。自分がもし男だったら彼よりはイケメンになっているだろうと少し自惚れも出てきた。可奈子が競合的であることを肯定している点では彼女はニーチェ的であった。
零人は歩きながら長く会っていなかった可奈子の気持ちをほぐそうと、今日のピアノ演奏を褒めたり透かしたらりして煽てたりしたが、彼女があまり気がない返事しかしないので、自分があまりに見え透いたことを言ってしまったのかなと少し気をもんだ。 競合的であるという可奈子の気持ちとは裏腹に零人は感慨を感じていた。 可奈子が昔と少しも変わっていない、普通は中学生の頃の顔はまだ子供の顔から大人の顔に変わる過渡期であるので大人になると顔が変わってしまう人が多いのに、可奈子も当然大人顔になってはいたものの、彼の知っていた頃の顔がそのままであり、あごや鼻などの骨格は確かに大人のものに置き換えられていたが面影はそのままであったので、彼はますます懐かしさを感じて気持ちがあの頃にもどっていた。しかし、一方で彼は明晰な理性を持ち合わせていたので、理性的明晰さを求めるアポロンのように“時間は人間を同じ状態に決しておいては置かない。同じに見えても見えないところで必ず変化が起きているはずである”と囁く声に耳を傾けながらも、しかしそれにしても不思議だ、彼女は昔のように処女のように見えるのはなぜだろうかと彼は思った。 やがて二人は埠頭に着いた。そして、港を臨む欄干に持たれながら広がる景色を見ていた。潮の香りが涼しい風を送って二人顔をさらしていた。そのとき二人の見ている海を一羽のカモメが水面スレスレを飛んで去った。
零人が可奈子のほうを見ると話し始めた。
彼は私生児で生まれてから母親と二人でひっそりと暮らしていた。彼の母が中学3年のときに白血病で急死したということは可奈子も覚えていた。 彼の実の父は、船舶会社で大成功していたが、彼らの前に結局現れることはなかった。 ところが零人が十八歳のときに、父親は繁栄している会社を残して死んだ。様々な紆余曲折の末に、偶然が重なり、私生児であった零人が父の残した全財産を相続して会社のオーナーとなった。 父方の親族はこぞって愛人の産んだ青二才の若僧が会社を継ぐことを猛烈に反対して辞めさせようと親権を発動して裁判まで起こした。 そして最近判決が下った。日本の資本主義も十分に成熟したようであり、所有者が遺産をどのように使おうと勝手だという理由で零人が裁判に勝利した。裁判で彼を支援してくれたのは今日の結婚式にも来ていた彼の大学時代の同窓生や仲間であり、大学1年在学中に司法試験に合格して弁護士になってような優秀な頭脳もいて彼の弁護をしてくれた。 こうして、彼は現在社長をしていると彼女に語った。
零人は自分の身の上話をざっと以上のように早口で話した後に可奈子に言った。 「実は今日の船上ウエデイングパーテイをしたあの船もぼくの会社の傘下の一つが所有している船だよ」。 彼は自慢して言っているというよりはそれを言うのを忘れていて今思い出したかのようにそれを言った。
それから、海を見渡し港を指差しながら、あそこに停泊している輸送船、それから向こうの客船、それからあちらのタ ンカー、この港に停泊している船はほとんどぼくの会社のだなあ。あっ、あの貨物船は違うようだけど、と言った。それから、あの右手の造船所とそれに隣接する工場群もぼくの会社の所有だと付け加えた。 潮風が髪で顔が隠すように吹いていたが、可奈子は「早川君はずいぶんとお金持ちになったのね、財閥みたいよ」とサラリと言った。 零人は財閥という言葉に特に反応したように「財閥!そうであればいいが、現実のぼくはそんな安定した良いご身分じゃないよ」と可奈子の言葉を否定するように言った。
それから続けた「裁判も終わったことだし、これで晴れて父の財産と会社はすべて継いだわけだが、ぼくは船の仕事からは撤退しようと思っている。そして新しい事業に転換しようと思っている」。
可奈子が訊いた「新しい事業ってどんなことに?」 零人が応えた「エネルギー分野の産業、そうだな、特に光科学の事業がしたい」。
彼は腕時計を見るとそろそろ夕方からの2次会の仲間が集まり花婿を囲んで始める頃だと言うと、二人して駅のほうへ向かった。 二人の後姿を追いかけるように潮風が吹いていたが、少し日が落ち始めたせいか海風は冷えてきていた。
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