可奈子は室人のほうを見ることはなかったが、タクシー乗り込むと最後に室人を厳しい目で一瞥した後は彼を見ることはなかった。これが最後の別れのようでもあった。
残された室人は駅に続くアーケードの天井一面に張られたガラス窓を通して絶え間なく降り注ぐ雪見えた。しかし、外を見るとまったく雪は積っていなかったのを見て、外気が暖かいせいだろうと思った。
室人が歩いていると、突然に、「谷田貝さん、谷田貝さんですね、、、、、」と言う声がして、暗い壁から一人の男がぬっと立ち現れた。その男はまるで人気の無い壁から突然人間が浮き上がってくるかのように現れ彼に声をかけてきた。室人が立ちどまり男のほうを見ると、男はさらに話かけてきた。「谷田貝さん、オレはあんたが彼女のエレクトーン演奏をプラザで聞いていてその後このビルの上層階へと二人で上がっていったのをずっと見ていた。それからホテルに行ったのも見ていた。それからいままでオレはここで待っていた。」 「オレはあんたが彼女と何をしていたかがすごく気になる。彼女は泣きそうな顔をしているようにオレには見えた」と男は続けた。 室人が「別に何もない、、、」と小さく言った。 「そんなはずはない。こんな深夜まで何をしていたのか」と男が卑屈に言った。 室人が「ところであなたは誰ですか。なぜぼくと彼女のことに関心を持って訊くのですか」聞き返した。
室人は可奈子が最近時々誰かが自分を見ている、でもだれだか見えないと言っていたことを思い出した。この男があの見えないストーカーだったということが今わかった。ところでこの男の名前は知らないが、男は「深井壁人」と名乗った。 壁人「オレはただ生きているだけの人間だ。オレには日常というものが地獄のような苦しみにしか思えない。オレは理想を持ったり、生きがいを持とうと何度も試みた。しかし、そのたびにオレは絶望した。そしてすべてが灰色となりオレは現在では絶望の中で生きている。」。
室人は壁人の話をじっくりと聞いてみたいと思ったので、ちょうど開いていた屋外カフェの椅子に座って話をすることにした。壁人も黙って従った。バイトらしいミニスカートでエプロン姿のウエートレスにコーヒー2つを注文した。 壁人「人生は生きるに価しないというのがオレの結論だ。そんなオレが絶望の淵を彷徨っていたとき、限りなく死に近づいていたときに、オレは彼女を見た。オレは彼女の存在によって絶望を否定する何かを感じた。オレにとってすべてはいまだに絶望であるが彼女を通して絶望でない何かを予感するのだ。それこそがオレがこうして絶望に中でもただ生きていられる根拠になっている。」
その時に先ほどのウエートレスがコーヒーを運んできた。室人はちらりとウエートレスを見たが、壁人はまったく眼中にはないかのように話を続けた。 「谷田貝さん、オレは絶望の中にいるがあんたは幸福の中にいる。彼女を軸にしてあんたとオレは対極に存在している。この人間存在の位置関係をオレにはどうすることもできない。その中でオレは毎日を生きているしかない。」
|
|