金曜日の午後2時半を過ぎる頃になろうとしていた。その銀行には明日から週末に入るということでたくさんの客が来ていたうえにATMが故障して店内は人で溢れていたが、閉店が近づいた頃には客も急激に少なくなってきていた。
窓口業務をしていた麻衣はピンポンと番号呼出を鳴らした。そして、125番のお客様どうぞと言った。中年の婦人が来た。ATM機がすべて故障していると言って、通帳での引き出しに長い間並んでいたのだ。麻衣が出金してあげた後に、中年のおばさんはお金を受け取ると通帳を見ながら、今月はたいした買い物はしていないのに、こんなにお金が飛ぶように出て行って、利子はまったく付かない、物価は上がるばかりで、この銀行はATM機が故障していてこんなに長い時間待たされて、一体どうなっているのこの世の中はと麻衣の顔を見て愚痴った。すみません、円高不況で物価高なもので、それからATM機の修理が本日中に間に合わなくてお客様には大変ご迷惑をおかけしておりますと麻衣は頭を下げた。自分が何で頭を下げなければならないのかと内心思ったが、サービス業だからこれも仕方がないことかなと思って見たりした。中年のおばさんはそれでもまだぶつくさと文句を言いながらも窓口を後にした。
おばさんが去っていくのを見ながら、麻衣は今日はこれで最後だと思いながら次の番号呼出を鳴らした。そして、126番のお客様どうぞと言った。だれも来ないので、今度は少し大声で126番のお客様窓口までいらしてくださいと言った。もう一度鳴らして126番のお客様3番窓口までいらしてくださいと叫んだ。それでもだれも来る気配はないので客は帰っていないのだろうと思った。麻衣は今日仕事が終わった後で彼氏と一緒に久しぶりに夕食に行くことになっていた。腕時計をちらりと見て仕事にもう少しがんばろうと、手元の書類に目を通し始めた。その時、自分の手元の書類に人の影を感じた。麻衣が顔を上げると、そこに見覚えのある男が立っていて「向こうのソファに座ってずっと考えごとをして呼び出しに気がつきませんでした。すみせんがまだ間に合いますか」と言った。
「ああいいですよ。」と麻衣が男を見て言った。男は40代前半で、茶色の皮ジャンを着ていた、度の強そうなメガネをかけて顎鬚を生やしていた。麻衣は高校の頃の世界史歴史の授業を思い出して、左翼革命家のトロッキーみたいと思って内心笑ってしまった。しかし、麻衣はその男に以前に街で男に会ったことがあった。一ヶ月ほど前の夜、麻衣は仕事が終わって帰宅の途中で彼氏と待ち合わせをしていた。途中には半地下のロータリーになっている舗道があり、その舗道が2方向に分かれる広場のような場所にさしかかったときに、小学生ぐらいの子供たち数人が広場奥の柱の近くで何かを取り囲むように集まっている。もう、こんな時間だったらあのくらいの年頃の小学生は皆塾に行っているのにこんな所で塾をサボっているのかしら、誰かをいじめているのかもしれないと麻衣はとっさに思った。麻衣は子供たちが何をしているのか見ようと小学生たちのほうに近づいていくと、一人の子が麻衣に気がついて振り返って「アッ、先生だ。」と言った。その子が「皆もう帰ろう。」と言うと他の子もその子に従うように一緒にその場を逃げるように立ち去った。麻衣はやはり弱い者をいじめをしていたのかと思ったが、子供たちの立ち去ったそこに座っていたのは意外にもあの男だった。トロッキーを思わせるような左翼くずれのようにも見え、あるいは着古した服装からあまり裕福な生活ではないように見えた。しかし、男の目は優しそうであったので、麻衣は「あの子たちはどうして逃げたの?」とその男に話かけた。男は子供たちが走り去ったほうを見ながら「きっとあなたのことを学校の先生だと思ったんだろう、あの子たちは学校では宿題は自分自身がやるように先生からいつも注意をされているんだ、でもあの子たちは家が貧乏で塾に行きたくても行けないんだ、だから、ぼくがあの子たちの宿題のわからないことをここで助けてあげている、一人100円はもらってはいるけどね。」と言った。男は小さな粗末な折りたたみ椅子に座って、机代わりのみかん箱の上には宿題の計算をしたり書きなぐってような紙と鉛筆が散らかっていた。そばには空き缶が置いてあって100円硬貨が入っているのが見えた。麻衣が「ああ、宿題のボランテイアとうことね、、、、、、、」と言ったとき、向こうから「麻衣、麻衣、、、、だいぶ待った、、」と言う彼氏の声が後方で聞こえた。麻衣は振り返ると男のほうは見ることはなく彼氏のほうへと走っていった。そしてその日以後その男のことはすっかり忘れてしまったが、2週間ぐらい後の夕方に麻衣はもう一度その男を街で見かけた。通行人と思われる学生を相手に路上に立てたボードの上に何やら難しい数式や物理化学の記号さらには哲学用語などを書きながら議論をしている。そこに帰宅途中の会社員と思われるサラリーマンまで加わり激しく議論をしている。しかしながら多くの通行人はそんな男をどこかの穀潰しの成れの果てと思って無視して通り過ぎていく。昔のニートやホームレスは漫画本を読んでいたが、最近ではドイツ語の哲学の原書を読んで路上に座っている者も出てきた。円高不況による製造業の壊滅による雇用喪失と高学歴社会がついに大学院まで出ても“末は博士かホームレスか”が若者にとっても常識となった世の中にしていた。
こうして漠然とした街で見かけたときの印象を思い出しながら麻衣は男を見ていた。男の方はまったく麻衣を覚えていないようで、「全額を引き出してください。」と男が言って通帳を出した。麻衣は通帳を見ると5万2千111円の残高があり、口座名は‘谷田貝室人’となっていた。「全額引き出してしまうと口座管理料が維持できなくなりますから最低預金残高千円は必要ですが、どうなさいますか」と麻衣は男に尋ねた。「ぼくは借金がある、アパートの家賃の滞納もある。だからお金が必要なんです」と男が言った。「それでは、通帳も解約という規則になっていますがそれでもいいですか?」と麻衣が言うと、「ああ、ありがとう、本当は口座は残して置きたかったけれど規則ということならば仕方ありません。全額下してください。今日まで僅かだったがぼくの父親が残してくれた遺産の預金で食いつないできたが、もう明日からは収入のあてもないし、おそらく自分の口座通帳ももう必要ないと思う。」と男が言った。麻衣は出金して解約済みの通帳を男に渡すと「お気の毒に思いますが規則ですから。またのご来店の折はぜひ新規の口座を作られることをお勧めします」と言って頭を下げた。男が出ていくのを麻衣は同情の眼差しで見ていた。男が店を出るのを待っていたかのようにすぐに閉店のためにシャッターが一斉に下がり始めた。
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