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作品名:ラフスルエンの樹 作者:新幸一

第73回   十三章 動きはじめた『獣』(2)
目を開けたイノの視界に映ったのは、頭上に張りめぐらされた天幕の布だった。

ここはどこなのだろう。覚えのない場所だ。

ぼんやりとした思考。それでも、自分が地面に敷かれた夜具の上に横たわっているのがわかった。

夢でも見ているのだろうか。だが、横たわる夜具の下にある硬い草の感触と土の臭い。そして、天幕が風に波打つ様と、その向こうから聞こえてくる人々の話し声や虫の鳴き声はやけに鮮明だ。

ふと、近くで声がしてイノは目を転じた。地面に置かれたランプの薄暗い光の中に、二人の人間が話をしているのが見えた。

背中まで伸ばした明るい栗色の髪。後ろ姿だがレアだとわかる。だが着ているのは普段の白い装束ではなく、袖のない蒼色の上着とズボンだ。

彼女と話しているもう一人は、薄い橙色の衣服を身につけた男だった。

(あれは誰だ?)

いまだおぼろげな感覚。二人の会話はよく聞き取れない。

やがて天幕の外へと出て行った男に、レアが頭を下げた。

状況がつかめない。それとも、これはやはり夢なのだろうか。

レアがこちらを向いた。青い瞳がイノを捉えた。

「気がついたみたいね」

こわばった声。彼女はすごく怒っている──ように見える。

夢じゃない。イノはそれを知った。

「ここは?」

そうたずねた自分の声が、びっくりするぐらいしゃがれていた。起こそうとした身体が、思い出したように不調を訴える。 

重さと。熱と。痛みと。

(そうか!)

イノの中で形をとりはじめる記憶。小さな指輪。悲鳴。逃げ惑う人々。黒い輝き。子供達の笑い声。

(オレはあのとき……)


*  *  *


「進路を変えて街道に出ましょう」

前を進んでいるレアの声に、イノは重い頭を上げた。振り返った彼女の顔は、はた目にもわかるほど憔悴の色が濃くにじみ出ている。

「進路を変えるって?」

そう答える自分の顔色はどうなのだろう。

かつての仲間──追っ手達との戦いから、四日が経っていた。

ろくに睡眠も取らずに移動し続けているのと、自分達の痕跡を残さないようにレアが慎重に配慮しているおかげもあって、あの日以降、追っ手と遭遇することはなかった。今のところは、向こうはこちらを見失ったのだ──と二人は判断していた。

だが、この四日間、追われているという意識は、常に神経を尖らせることを要求してきた。木々の奥から聞こえてくる物音の一つ一つに、身体が敏感に反応してしまう。昼であろうと、夜であろうとそれは変わらなかった。途切れることのない緊張の連続は、お互いの肉体と精神を激しく消耗させている。

「今のままの状態で、『楽園』まで旅を続けるなんて不可能だわ。街道沿いに行けば、人の住んでいる所に出られる。なるべく大きな村を選んで、そこで新しく荷物を調達するなりしないとね」

追っ手に関しては一時解決したものの、今度は荷物を失った事実が重くのしかかってきた。とくに食糧の問題は大きかった。今のところは、レアがそこら辺の木に生っている実から食べれるものを取ってくることで飢えを満たしている。しかし数日ならともかく、この先ずっと木の実を食いつなぐだけでは身体がもたない。

「予定してた進路を外れちゃうけど……こればかりは仕方ないわ」

反対する理由なんてない。イノは現在の苦況を、自身が招いた責任としてレア以上に重く受け止めていた。

イノは口を開いた。乾きの癒えぬ喉にこすれる声が、妙な具合に聞こえないよう慎重に。

「でも……荷物を調達できるあてなんてあるのか?」

今二人がいるのは、ノトと呼ばれる地域である。お互いに、来たのは初めてのはずだ。

案の定、レアは首を振った。

「ここには知り合いなんていないし、以前のようにすんなりとはいかないわね。お金もないし、ただで譲ってくれる……わけはないでしょうから、物々交換しかないわ」

「だけど、交換するものなんてないよ」

「これがあるわ」

と、彼女が出して見せたのは、美しい彫刻の施された白銀の指輪だ。

「それって──」

『継承者』アシュテナ家の紋章が刻まれた指輪。それは、レアの出自を証明するものであると同時に、亡き両親の唯一の形見でもある。いかなるときも手放すことはなかったと、イノは彼女から聞いていた。

「大丈夫よ。ノトはセラーダの管理外にある地域だから。フィスルナからもはるか遠く離れているし、ここの人達には、この指輪の紋章の意味なんてわからないわ。ただの値打ち物の腕輪にしか見えないはずよ。だから、うまく交渉すれば、必要な物はこれ一つで賄えるかもしれない」

「そういう心配をしてるんじゃない。それはレアの大事な物じゃないか!」

「他に手はないわ。まさか武器や防具を交換するわけにはいかないし。それ以外となったら、もはや強盗でもするしかなくなるわよ?」

確かに相手の言うとおりだった。

イノは沈黙した。己の行いで荷物を失い。レアに両親の形見を手放させなければならなくなったことで、自責の念がさらに強くなった。

強い決意を胸に抱いていたはずなのに、いざとなると迷ってばかりで何の役にも立っていない。それどころかレアに負担ばかりかけている。これほど自分が呪わしく思えたことはなかった。

「イノが気にすることはないわよ」

こちらを見ながら、レアは落ち着いた優しい声でいった。

「確かにこの腕輪は大切なものだけれど、それ以上に大切な目的が今のわたしにはあるわ。そのために手放すのなら……きっと父や母だってわかってくれる」

きっと内心では悲しく思っているだろうに。それを表に出さず、むしろ毅然として微笑んですらいるレア。

大切な目的──と口にするレアに迷いはない。スヴェンの矢の前に命がけで立ちふさがってくれたときも、今このときも。ここまでの旅で白い装いはうす汚れ、疲労で顔色も悪かったが、イノはこのときほど彼女が頼もしく、そして、きれいに見えたことはなかった。

その彼女の姿が一瞬、揺らいだ。

「大丈夫?」

はっとして持ち直す。ごまかす。

「何が?」

「顔色がひどいわよ。少し休む?」

「大丈夫。それに……顔色がよくないのはお互いさまじゃないか」

そう、とレアは再び前を向いて歩き出した。少し不審げな目つきをしていた。

相手に聞こえないように、イノは小さく息をはき出した。熱い。

数日前からぶりかえした腕の痛み。それが逃亡中の惨めな生活に拍車をかけられ、今では身体中を蝕むようになっていた。

一歩、一歩踏み出す度に、頭や身体の節々がずきずきと痛む。燃えるような熱が全身に生み出すじっとりとした汗。そのくせ、身体の芯は凍えるぐらいに寒い。

まずい状態のはわかっている。だが荷物を失い薬もないこの状況では、どうしようもないのもわかっている。それを招いたのは自分だということもわかっている。大切な腕輪を手放す決心をしたレアに、これ以上負担をかけるわけにはいかないのもわかっている。

だからイノは何気ないふうを装っていた。落ち着いて処置を施せる場所へたどり着くまでは、なんとしても持ちこたえなければならない。

荒ぶる息を殺す。訴える痛みと熱を殺す。

歩く──たったそれだけのことが、永遠に続くかのような苦行に思われていたそのとき。

ぞくり、とイノの全身が震えた。

身体の芯に滞る寒さのためではない。もはや馴染みのものとなった『樹の子供』としての感覚。肉体の持つ知覚とは別の知覚が、自分達の前方にある何かを捉えたのだ。それが、身体の不調に妨げられることなく明敏に伝わってきた。

間違いない。

「『虫』がこの先にいる」

ざらついた喉。熱い息。それでもイノは、はっきりといった。

レアがぎょっとして振り返った。

「まさか──」

彼女の懸念を察して、イノはポケットに入れたままの『金色の虫』──シリアに意識を向ける。

「いや……彼女は関係ない。それに、向こうはオレ達を狙っているわけじゃなさそうだ」

シリアはいまだ沈黙を保っている。それに、イノが今感じているバケモノとの〈繋がり〉は微かなものだ。相手はこの場所からずっと先にいる。その証拠に、例の黒い輝きも視界に映る範囲には見あたらない。

おそらく、『虫』は自分達とは関係なく現れたものなのだろう。怪物達は日々どこかで生まれ続けているのだ。ちなみに、ノトの東に隣接しているエラエル地方は、セラーダによって『虫』の発生区域に指定されている。そこで生まれた彼らが、この場所まで移動してきたということは十分にありえる話だ。

むしろ、『虫』の存在を事前に察知できたのは幸運なことだった。相手に気づかれていない以上、避けて通ることができるのだから。『普通』ならば、このまま何も知らずに進んで、怪物達と出くわすことになっていただろう。

人の持ちえぬ力──イノはようやくこの旅で、自分が役に立てた気がした。

レアはすぐさま首をめぐらせて、別の進路を探している。こちらの言葉を一片の疑いもなく信じてくれている、そんな彼女の様子が嬉しかった。

獣のいななきが遠く聞こえてきたのは、そんなときだった。

野太いその悲鳴は、イノとレアにも聞き覚えのあるものだった。ガル・ガラというこの大陸では一般的な獣だ。鈍重な身体を持ち、主に大きな荷を運送するのに使われる。しかし、野生で生息しているのは、はるか南の地方でのことだ。

つまり──二人の間に緊張が走った。

「あいつら……いま人を襲ってるのか!」

聞こえてくる声はガル・ガラのものだけだが、間違いないだろう。

セラーダ軍が管理外の地域で『虫』と戦っているわけがない。となれば、襲われているのはどこかの村か旅人か……。

憔悴し、病に冒された身体を酷使して、わざわざ怪物がいる方へ向かいたくはない。だが兵士でもない普通の人々が襲われているのならば、放っておくわけにもいかなかった。

その気持ちは、レアも同じようだ。

「とりあえず、様子を見に行ってみましょう」

彼女は素早くいった。

イノはうなずき、駆けだしたレアの後に続いた。自分達が戦うかどうかは、そのときに判断すればいい。

地を蹴る脚。歩いていたときよりもさらに激しい衝撃が、不調な身体に悲鳴を上げさせる。

荒ぶる息を殺す。訴える痛みと熱を殺す。

『虫』との〈繋がり〉がひしひしと強まる。何度感じても、肌が泡立つのを禁じ得ない。やがて、熱でガンガンと鳴りひびくイノの頭の中に、はっきりとした印象が流れこんできた。一枚、一枚広げられた書物のようなバケモノ達の意思。数は十一。それぞれに記されている殺意と殺戮への悦びが、はっきりと読み取れた。

ひんやりとした空気に立ち並んでいる老木の向こうに、日の光が強く見えはじめた。森が終わろうとしている。そして、ガル・ガラの声に混じって、あきらかに人のものと思える悲鳴が耳に聞こえてきた。

駆け続ける二人が森から出た先は、なだらかな斜面の続く平原だった。降り注ぐ陽光に輝く緑の草の中を、東西からの街道が一つに合わさって北へと延びているのが見える。その辻に、隊商とおぼしき集団が止まっていた。『虫』に襲われているのは彼らだ。

穏やかな日の光を飲みこみうねる黒い輝きの群れが、イノの瞳に映っていた。『虫』は小型種が十一匹。たいした数ではないが、恐慌に陥ったガル・ガラと共に悲鳴を上げて逃げ惑う人々は、どう見ても戦う人間のそれではない。荷車から落ちた貨物が盛大に地面に散乱している。

今のところ犠牲者は少ないように思える。だがそれも時間の問題だ。

そのとき、子供を抱えた女性が、自分達のいる方に向かって斜面を駆け上がってきた。黒い肌に橙色の上着とズボンを身につけた彼女の背後には、二匹の『虫』が迫っている。

様子をうかがうどころか、一刻の猶予もない状況だ。やるしかない──瞳で互いの意志を確認し、二人は同時に駆け出した。

『虫』が父の仇ではなかった≠アとを、今のイノは知っている。これまで相手に抱いていた憎しみが、見当外れのものだったこともわかっている。それでも、人々に襲いかかる怪物達と戦うことに躊躇いはない。

荒ぶる息を殺す。訴える痛みと熱を殺す。

逃げてくる女性が、突如として木立の中から現れ斜面を駆け下りてくる黒と白の人姿を見て、ぎょっと目を見開いた。

思わず足を止めた彼女の脇を駆け抜け、イノとレアは迫る二匹の『虫』へと向かう。それぞれがすでに狙いを定め、抜き放った刃を振り下ろした。

しかし。

腕を駆け抜ける焼けつくような痛みに、イノの刃の狙いと勢いが死んだ。

怪物を仕留めるはずの一撃が虚しく空を斬る。

忌々しさに舌打ちしたイノの目の前で、怪物の黒い輝きが揺らめく。子供の笑い声が響く。

飛びかかってきた『虫』を辛うじてかわす。よろける身体。踏みこたえる足が安定していない。それでも反撃に移る。着地し回りこもうとする相手に、普段よりはるかに重く感じる剣を繰り出す。

脚を斬り飛ばす感触がした瞬間、すかさず刃を返す。そして、甲殻の隙間を貫く感触。子供の悲鳴。〈繋がり〉が伝えてくる相手の痛み。それに共鳴する肉体の痛み。

膝が落ちた。

「イノ!」

もう一方の『虫』を屠ったレアが、声を上げて駆け寄ってくる。

彼女に答えようとした。できなかった。片手をついた地面に、顔の汗がいくつもの滴となって落ちた。目の前にある草の一本一本が判別できないほどに、視界がぼやけている。 

鳴り響く頭。かすむ視界。肩に乗せられたレアの手が、呼びかける彼女の切迫した声が、ずっとずっと遠くに感じられた。相手の言葉に何か返したような気がする。それすらもわからない。

イノは震える膝を立てた。前方を見据える。にじんでいる世界の中、それでもはっきりと視える″浮「輝き。

(そのザマじゃろくに戦えないぜ。使っちゃえよ。あの扉を開けて……)

耳障りな自分自身の囁き。それだけがはっきりと聞こえた。

イノは歯を食いしばる。荒ぶる息、訴える痛みと熱、囁き、何もかもを殺して駆け出した。

異常をきたした身体のあちこちが限界を叫んでいる。もう何も見えない。何も聞こえない。

それでも視える。聴こえる。肉体を超えた場所にある感覚は、すべてを捉えている。黒い輝きを。子供達の声を。脳裡に浮かぶバケモノ達の意思を。イノはそれを頼みにがむしゃらに剣を操り、身体を駆っていく。

子供達の悲鳴。四散し消えていく異質な光の群れ。

一つ。また一つ。

呼吸が苦しい。意識が彼方へ引っぱられそうになる。

まだだめだ。殺さなければ。殺さなければ。

息を。痛みを。熱を。囁きを。輝きを。笑い声を。

再び膝が落ちた。

毒づいて体勢を立て直そうとした。だが、身体が意思に逆らう。動かない。それでもやっきになろうとする意識が、見えない手に捕まり暗闇に落とされていくのを感じた。

最後の一瞬だけはっきりとした視界が捉えたのは、自分に迫る黒い輝きと、色を失った顔で駆けてくるレアの白い姿だった。


*  *  *


「何があったか、思い出してくれたのかしら」

レアの声に、イノは顔を上げた。

強ばった声と。張りつめた表情と。

やはり──彼女はすごく怒っていた。


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