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作品名:ラフスルエンの樹 作者:新幸一

第55回   九章 それぞれの再会と別れ(5)
地下を走る暗い通路を半分も進まないうちから、先の方で絶叫が聞こえた。おそらくは、『館』の外を探索していたセラーダの兵士だろう。『虫』は自分達が後にしてきた広間だけでなく、ネフィアの本拠地すべてに現れ、彼らにも容赦なく襲いかかっているのだ。

前を進んでいるサレナクが階段らしきものを上る音が聞こえた。やがて、扉の開く音がして、闇の中に真上から月光が差しこんでくる。そのまま外へと出て行った彼とレアの後に、イノは続いた。

目の前に広がる光景にイノは息をのんだ。今だくすぶっている炎にとってかわるように、黒い輝きが星々のごとく大地に充ち満ちている。いったいどれほどの数の怪物が、この地に現れたというのか。

(お前は何をしたんだ?)

今はぴたりと肩の上に乗っかっている『金色の虫』へ、イノはそう問いかけた。だが、小さくなってしまった〈繋がり〉からの答えはなかった。

通路を抜けた先は、この地を囲む岩壁のすぐそばだった。そこには、すでに無残な死体がいくつか転がっていた。セラーダの兵士達にとっても、突如として現れ襲いかかってきた『虫』は、あまりにも予想外の出来事だったにちがいない。

今のところ、この近くに『虫』はいない。次なる獲物を求め、この大地を駆け回っているのだろう。彼らによる殺戮は、まだはじまったばかりなのだ。

サレナクと、レアと、そしてイノと。岩壁に沿うようにして黙々と三人は進んだ。やがて、岩壁の反対側に木々の茂みが現れ始める。どこか遠くで悲鳴が聞こえた。

力を失った様子のレアを無理に引っぱっていく格好のため、サレナクの歩みは遅い。その後についていくイノの足取りも重かった。このまま引き返し、スヴェン達のもとへと行こうとする想いが、いつまでも心を責め苛んでいた。

(これは裏切りじゃない。みんなを敵にまわすとか、そういうことじゃない)

自らに言い聞かせる言葉。だが、仲間達の下に戻ればシリオスと相対することになる。そして、彼は再び選択を迫ってくるだろう。恭順するのか、そうでないのかを。

古くなった壁を塗りかえてしまうように、「英雄」として見ていたシリオスの印象は、イノの中で決定的に変わってしまっていた。尊敬し憧れていた人物が、危険で怖ろしい人物に。

かつて共に肩を並べ戦ったシリオスを、アシェルとサレナクが討とうとした理由が今ならわかる気がする。彼女がシリオスについてイノに語ったことのすべてが、事実だったのだと受け入れられる。

彼の言葉と、振る舞いと、〈力〉に触れた今は。

そして彼の異形の腕──見たのは一瞬だが、決して錯覚ではなかった。

このまま「黒の部隊」に戻ったとしても、これまでのように何の疑問もなくシリオスに付き従うことなんてできない。そして、そんなイノを彼は放ってはおかないだろう。恭順しないのならば消されるに決まっている。アシェルがそうだったように。

しかし、いくら「英雄」が危険な人物であることをイノが訴えたところで、セラーダの誰一人として信じてはくれないだろう。スヴェン達やクレナでさえも。もし仮に耳を貸してくれたとしても、相手は雲の上の立場にいる人物だ。一兵士でしかない自分の手では、どうすることもできやしない。

だから背を向けてしまった。心の秤が少女の言葉に傾いてしまった。

それでも、イノにははっきりと離反したという気はなかった。ただ逃げ出しただけだ。仲間達と共にいるシリオスが怖ろしかっただけだ。

必死で考えていた。このままサレナクとレアを脱出させ、自分は何事もなかったようにスヴェン達の下へ戻る方法を。考えれば考えるほどに虚しくなるにしても、その可能性にしがみつかずにはいられなかった。

(ちくしょう。こんな〈力〉なけりゃよかったのに。そうしたら、何一つ知らずにすんだのに……)

恨みごとを繰りかえす脳裏に、ふと唐突に浮かんだ印象。殺意の記された書物。読み取れたのは、力なく歩いている白い姿。

イノは顔を上げた。前を歩いているサレナクとレアが見えた。

「危ない!」

事態を察し、慌てて叫んだときには遅かった。横手にある茂みを突き破った一匹の『虫』が、レアに襲いかかった。

立ちすくんでいる彼女をサレナクが庇う。その背中に灰色の塊が激突する。鋭利な爪が肉体を刺し貫く音が、はっきりとイノの耳に聞こえた。

そのまま『虫』とサレナクの姿は一つになって地面に転がった。レアの悲鳴と怪物の発した狂喜する子供の声とが重なった。

いまだ手にしたままのレアを剣を構えて、イノは駆けだした。もつれあっているサレナクと『虫』。狂ったように暴れている怪物の爪が、彼の脇腹をえぐるのが見えた。

しかし、イノが助け出すよりもはやく、サレナクは自らに取りついた『虫』を押しのけ地面に抑えつけた。なおも爪で切り裂こうとしてくる相手を足で踏みつけ、その胴体に深々と刃を突き刺す。どっと溢れ出す体液と共に、子供の絶叫が響いた。

細かく痙攣している『虫』の上で、突き立てた剣に寄りかかるようにしていたサレナクの身体がぐらり、と傾いた。剣を放り出し、慌てて駆け寄ったイノの腕に、大柄な彼の重みがかかる。怪物にやられた身体中のいたるところから、冗談のように鮮血が流れ出していた。

「オレは……問題ない。行くぞ」

言い終えたとたん、サレナクは地面に向けてごぼり、と血を吐いた。イノは絶句した。誰が見ても重傷なのはあきらかだった。だが、手当する道具も時間もこの場にはない。

もう少しはやく『虫』の存在に気づいていれば……自分のうかつさを呪った。

イノに脇を支えられながら、サレナクは『虫』に突き立てた自分の剣を引き抜き鞘に収めた。その動作すら、気力を振り絞らなければできない様子だ。この先一人で歩くのは無理だろう。いや、それ以前に助かることさえも……。

「あんたは反対側を支えてくれ!」

不吉な考えを振り払い、イノはレアに怒鳴った。わななきながら二人の様子を眺めていた彼女が、弾かれたように駆け寄る。

「サレナク……わたしが……」

彼の身体に手を添えたレアが声を震わせた。

「問題ない、と言ったろう?」

気丈に答える相手の、血の気を失った頬に走る大きな古傷が、笑みで歪んだ。

イノはいったんサレナクの身体をレアに預けると、地面に放り出した彼女の剣を拾い、再び彼の脇について支えた。周囲に他の『虫』がいる気配はない。だが、木々の間から、数えきれないほどの黒い輝きが遠くで踊っているのが見える。奴らは獲物を探しているのだ。その勢いのまま、すぐにでもこの場所まで押し寄せてこないという保証はない。

「あそこへ……向かってくれ」

両側から二人に支えられたサレナクが指差す方向に、洞窟が口を開けているのが見えた。


*  *  *


「あの野郎、逃がしゃしねえぞ!」

イノ達が隠し通路の奥に消えてしばらくして、『虫』の一匹を斬り伏せたガティが激怒の声を上げると、彼らの後を追うために駆け出した。

「待て、ガティ!」

スヴェンの制止の叫びも届かず、彼は通路へと飛びこんでいった。その後を数匹の『虫』が追っていく。

舌打ちすると、スヴェンは飛びかかってきた怪物をかわし、その脚を斬りつけた。

(いったい、何がどうなってるんだ?)

体勢を崩した『虫』にとどめを刺しながら、スヴェンは自問した。

刃が怪物を貫く確かな感触を感じながらも、スヴェンには、この建物に入ってからの出来事すべてが夢であるように思われてならなかった。それも、ひどくデキの悪い夢だ。

ネフィアの指導者らしき女性と、セラ・シリオスとの会話。内容の意味こそわからなかったが、二人が旧知の間柄なのは、誰の目にもあきらかだった。そして彼女が死んだ後の、反逆としか思えないイノの不可解な行動。さらに、何もない空間にいきなり出現し襲いかかってきた『虫』達。

わけがわからない。まるで、内容を知らされていない芝居の中に放りこまれた役者ような気分だった。しかも、ただ舞台に突っ立っているだけの脇役として。

混乱しつつも、『虫』を撃退するために正確に動いてくれる自分の身体がありがたかった。現実味はなくても、この怪物達は本物なのだ。そして、それがもたらす死も。

『虫』が暴れるさい、ひっくり返したテーブルから落ちたランプの火が床の敷物に燃えうつった。古ぼけ乾燥したその上に、炎は滑るように広がっていった。

「片づいたようですね」

最後に片付けた『虫』の死骸から、スヴェンが剣を抜いた直後、背後から落ち着いた声がした。

シリオスだった。

しまった、とスヴェンは思った。突如現れた『虫』達を撃退するのに手一杯で、本来の任務である彼の警護を忘れてしまっていた。

慌てて振り返り、シリオスの無事を確認しようとしたスヴェンは、彼の背後にあるものに息を呑んだ。

燃え広がる炎になぶられようとしている『虫』の死骸の群れ。その数は自分達が倒した倍以上はあるだろう。黒衣の英雄は、たった一人でこれをやったのだ。しかも、本人は傷一つ負わず、息を切らせてもいない。

スヴェンは全身に鳥肌が立つのを感じた。感嘆よりも、むしろ怖れに近い気持ちだった。

それに──と思い出す。ネフィアの娘や男が、シリオスを襲ったときに起こった奇妙な現象。あれはいったい何だったのか……。

「ひとまずこの建物から出ましょう」

静かに広がりゆく炎に目をやり、シリオスはいった。

「ですが──」

スヴェンは、炎の先にある隠し通路の入り口を見た。イノは自分達に背を向け、あの中へと消えていった。なぜあんな真似をしたのか。本当に裏切ったのか。今すぐにでも追いかけ、彼を問いつめたい衝動を抑えることができない。

最後にイノと視線を合わせたときの、彼のせっぱつまったような表情が、スヴェンの脳裏に焼きついて離れなかった。

(まさか知ってしまったのか……だから『ネフィア』の人間と共に行ってしまったのか?)

その暗い考えが、いま広間を侵食しようとしている炎のように、じわりと胸に広がった。

「まずは、この地に現れた『虫』を殲滅しなければなりません」

シリオスは隠し通路を見て続けた。

「『彼』のことは、追っていったガティ君にまかせましょう」

穏やかな口調だが、異論をはさむことを許さない様子だった。

スヴェンは黙って了解した。だが胸中のわだかまりが晴れたわけではなかった。

間違いなく、この英雄はここで起こったすべての出来事を理解している。そして、それが自分達に語られることはない。そこまでわかっていながらも、彼を問いつめることのできない自分が、このときばかりは腹立たしかった。

広間を出るさい、シリオスが一度だけ振り返ったのが見えた。その視線の先には、彼自らが刺し貫いた女性の遺体があった。やがては床に転がる『虫』達と同様に、炎に包まれるであろう彼女を見つめるその黒い瞳からは、なにかの感情を読み取ることはできなかった。

あの女性は何者だったのか。シリオスと、そしてイノとは、どういう関係だったのか……。

スヴェンは、再び隠し通路の闇を見た。イノを追っていったガティ。怒りにかられたあの様子では、二人ともただではすまない事態になるかもしれない。一刻もはやくバケモノ共を始末し、自分達も駆けつけるべきだった。

それが間に合うのならば。


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