レアの剣が目の前にいる『虫』の脚を斬りとばした。すかさず、返す刃を相手の胴体めがけ繰りだす。狙いを定めた切っ先が体内の「核」に到達する手応えを感じた瞬間、その背後にいたもう一匹が飛びかかってきた。
はっと息をのみつつ、レアはすぐさま迎撃しようとした。だが、一匹目に深く刺しすぎた剣は、まだ半ばまでしか抜けていない。
間に合わない──背筋が凍りついた刹那。
間近に迫っていた紅い瞳が、引きはがされたようにレアの視界から消えた。そして、見えない何かに捕らえられた灰色の身体は、手近にあった木にすさまじい勢いでたたきつけられる。潰れる怪物のほとばしらせた体液が幹をべっとりと濡らす。
続いて背後ですさまじい音がした。レアが振り返ると、さらなる一匹が甲殻に大きな穴を開けられて地面に横たわっている。自分の気づかぬ間に、後ろから狙われていたのだ。
「レア」
二度も死ぬところだった自分を助けてくれたイノが、呼びかけながら素早く脇に来てくれた。彼の後ろには三匹の『虫』が横たわっている。一匹は〈武器〉で、二匹は剣で仕留めたもののようだった。
手にした剣と、人にはない〈力〉を同時に操って戦う──それがどんな感覚なのかさえレアには想像できない。
「ごめん」と謝って、さっと死骸から剣を抜いた。
「怪我は?」
「うん。大丈夫」
肩に優しく手を乗せてきたイノに、レアはうなずいた。彼の心配が嬉しくもあり、そして……苦々しくもあった。
自分達と少し離れた場所で戦っている黒い三人の姿を見る。さすがに『虫』との戦いに慣れていると認めざるを得ない動きだ。今のところ、彼らはイノの〈武器〉による援護を必要としていなさそうだった。
剣の扱いに大きな差があるとは思わない。でも『虫』との戦いにおける経験は、この中の誰よりも自分が劣っているのはあきらかだ。
冷えた空気に白いため息が出そうになるのをこらえる。そんな暇はない。瞳を周囲に走らせる。森だとはいえ、立ち並ぶ木々の間隔は広く草花の類も少ない。視界は良好だ。そして、ところどころに雪のつもった地面の上を忙しなく跳ね飛び展開している『虫』達の姿。
「なるべくオレから離れないように」
頼もしい声。レアは再びうなずき、剣を構えた。音もなく木陰から姿を現した怪物に黒い刃を向ける。
それは『死の領域』に入ってから七度目の戦いだった。
* * *
甘かった──『死の領域』に対しての認識も。『虫』というものに対しての認識も。レアはそれを痛烈なまでに思い知らされいた。
『死の領域』に踏みこんでからはじまった『虫』達との戦い。昼夜も、場所も、こちらの都合も、何もかもを無視して襲ってくる怪物達。繰り返される戦闘と休息のために、旅の歩みは一気に遅くなった。三日を経た今となっても、自分達の居場所は、最初に入った地点からさほど動いてはいないような気がする。
しかも、これで序の口なのだ。この先、奥へ進めば進むほど襲い来る『虫』の数も頻度も増していくだろう。『死の領域』という名そのままに。ここは怪物以外の生命を拒絶する地なのだ。
本当に、こんな場所で暮らしている者達なんているのだろうか?
今、一行はカビンの老人に教えてもらった『北の旅人』の里というのを目指している。だが『死の領域』を進んでいくうちに、レアには彼らが今も存在しているという事実が怪しく思えてきた。昔は確かに居たのかもしれないが、もうとっくに『虫』に全滅させられているのではないか……と。
しかし、それでも行くしかないのだ。イノの〈力〉をあてにして。でも、自分にはそんな彼の背中を守ってやることすらできず──
「どうしたのさ? そんな大きなため息ついて」
目の前の火に薪をくべながら、イノがたずねてきた。
「わたし、ため息なんかついた?」
我に返り、レアは聞き返した。そんな自覚はなかった。
「ついたよ。デカいのを」
『死の領域』に入って三日目が終わろうとしていた。今日一日で進んだ距離は少しだけ。大部分が『虫』との戦闘と休息で終わってしまった。明日もこんな調子なのだろう。いや、今夜ですら油断はできない。
「疲れているようなら休んだら? 見張りはオレ一人でやるから」
「そんなわけにはいかないわよ」
自分だけが疲弊しているわけではない。それに、疲労の度合いは、人ならぬ〈力〉を振るい続けているイノの方が激しいだろうことを、レアは知っていた。口調こそいつものままだが、ちゃんと食事や睡眠を取っているにもかかわらず、彼の顔は三日目にしてだいぶやつれていた。
あなたこそ休んで──レアにはそう言い返すことはできない。
いつ現れるかわからない『虫』を相手に一人で見張りができる人間は、事前にそれが感知できるイノしかいないのだ。その彼を休ませて、自分だけで見張りのできるほど『死の領域』という地は優しくはない。全滅を招くような危険を冒すことはできなかった。
「わたしも『樹の子供』だったらよかったのに」
ぽつり、と言った。
「なって楽しいものでもないよ」と笑われた。
「でも、今のわたしよりはイノの役に立てたじゃない」
「今だって十分役に立ってるさ」
「そうかしら。あなたがいなかったら、この三日でわたしは八度も死んでたわ」
「数えてたの?」
「覚えてるだけよ」
「まあ、オレ達は『黒の部隊』として、ずっと『虫』と戦ってきたわけだからさ。レアより慣れてて当然だよ。それでもきつく感じているんだ。今はまだなんとかやれてるけど、この先突き進むのは絶対に無理だ。あの〈武器〉がなければ。それはスヴェン達だってわかってる」
「結局……」レアは肩を落とした。
「あなたの負担が一番大きいってことじゃない」
「それは最初からわかってたことじゃないか。まあ、こっちも〈武器〉の扱いに慣れてきたから。ちゃんと抑えて使えば、あまり疲れることはないんだ。だから、この先も大丈夫だよ」
話の真偽を見極めようとするかのように、レアはじっとイノを見た。
たしかに、これまでの戦闘で彼が見せている〈力〉は、シケットで行ったような大規模なものではなかった。あのときのように、瞳が紅く輝いたこともない。「使い慣れてきた」というのは本当だろう。
だが疲労の話はどうなのか。相手のやつれた顔を見る限り、レアには手放しで安心できるとは思えなかった。小さな疲れだって、積み重なれば大きな病になるのだから。
何事にも払わねばならない代償というものは存在する──とレアは思っている。人が本来持たない〈力〉であろうとそれは変わらないはずだ。しかし、イノが何を払う≠アとであのすさまじい〈武器〉を振るっているのかを想像することができない。だから怖い。
落ち着いた表情で焚き火を眺めているイノ。彼は本当に大丈夫なんだろうか?
「そうそう」
その相手が、ふいに口を開いた。
「レアさ。オレの防具を着る気ない?」
「あなたの?」
予想もしてなかった言葉に、少しぽかんとなった。
「だって、レアだけずっとその白い服のままだろ。さすがに心配になってきてさ。オレ達は背格好も同じぐらいだから、身に着けるのは問題ないと思うよ」
「そりゃあ……そうだけど」
膝を抱えたまま自分の身体を見下ろす。もはや休息時にしかまとっていない暖かい外套をめくると、そこには本来の白い装束が姿をのぞかせた。
イノの指摘した通り、腰の少し上までを覆うケープの中にある胸当て以外、レアは防具らしいものを身につけていなかった。兜は『ネフィア』が崩壊したあの夜に失ってしまったのだ。
「昔、ちゃんと鎧を着てみたことがあったんだけど……なんか重いし動きづらかったから、それ以来着るのをやめたのよね」
「へえ。まあ、それがどんな鎧だったかは知らないけど、オレのやつは軽いし動きも制限されないからいいよ。クレナいわく『手間も暇も金も』かかってるらしいから」
そう説明しながら、イノが黒い胸当てを軽くたたく。たしかに、彼や「その他三人」の動きを観察してきた限り、鎧を着けていることでの支障はなさそうだった。
ちなみに、クレナという女性とイノとは単なる幼なじみで、それ以上の関係ではないらしい。しかも相手の方が歳は上のようだ。昨日、彼と「その他三人」との会話を聞いていて、レアはようやくそれを知ることができた。『死の領域』に入って、唯一気分のよかった出来事である。
「でも、わたしがそれを着たら、イノが着る鎧がなくなるじゃない」
「オレはいいよ。自分の身は自分で守れるから」
「わたしこそいいわよ。前にも言ったけど、あなたはこの旅の要なの。万が一が起こったら取り返しがつかない。それに、黒って色は好きじゃないのよ。身につけるのは剣だけで沢山だわ」
「色の好き嫌い言ってる場合じゃないと思うけど……」
「とにかくいいから」
頑として突っぱねた。もうこの話は終わりとばかりに、目の前の焚き火に顔を向ける。もし自分に鎧を貸したことが原因で、イノが死ぬようなことがあったら……そんなのは想像するだけでも耐えられない。
イノも静かになった。こっちの身を心配しての好意をはねのけられて、ちょっと怒ってるのかもしれなかった。でもこれは譲るわけにはいかない。
沈黙。やがて彼の動く気配がした。
ぽん、と頭に何か乗せられた。
「うん。悪くないんじゃない?」
レアが顔を向けると、兜を外したイノが笑っていた。
「鎧がだめならさ。せめてそれぐらいはかぶってよ」
レアは頭に手をやる。手袋ごしに感じる黒い兜の冷たさ。でも、兜の内には暖かさがあった。目の前の相手が持つ体温と優しさという暖かさが。
まるで兜の内側にある温もりが下りてきたみたいに、頬がだんだんと熱くなった。心地のよい暖かさ──それが身体だけではなく、心にまで伝わってくるのがはっきりとわかる。
「……そこまで言うなら、仕方ないわね」
と、うなずいた顔が自然とほころんだ。
「ようやく、笑ってくれたんだ」
「わたし?」
「最近、少しも笑わなかったからさ」
確かにそうかもしれない。『虫』との戦いとか。自分の非力さとか。新たに加わった三人とイノとが親しげに話してるのを見ると、やたらと寂しい気分になるとか。そして何よりも彼の身体の具合が不安だとか……。笑ってる余裕なんてなかったし、そんなことをしてる場合じゃないとも思っていた。
でも、そのことで自分が逆にイノを心配させていたのだとレアは知った。ただでさえ多くのことで負担をかけているのに気まで使わせて……。これでは本当の足手まといだ。
大きく息を吸って、レアは気を引き締め直す。戦いでイノを支えることができなくとも、他の何かで支えてあげることぐらいできるかもしれない、と。
「ごめん。もう大丈夫だから。今は兜もあるんだし」
コンコン、と兜の脇を軽くたたいて笑って見せた。イノも楽しそうに笑う。自分の笑顔が彼にも同じものをもたらしているのだという自覚が、何よりも嬉しかった。
『死の領域』──このときだけは、自分達にその名は当てはまらないのだとレアは思った。
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