全ての音が断たれた世界で、意識だけが漂っていた。 身体は全く動かない。目を開けることも出来ない。何も出来なかった。 やがて目の前に、見慣れた光が見え始める。そこは、見慣れた部屋の天井だった。すぐ傍には、テーブルと椅子が見える。いつもの、見慣れた部屋だった。 だが、何かが違っていた。 音の無い世界で、足音がした。 その足音は、ゆっくりと近付いてきた。 その足音は、自分の横で止まった。 誰かが、自分の肩を掴んだ。それは、男の手だった。 そして、男の顔が見えた。
それは、あの時のままの、スピラーン神父だった。 音の無い世界で、彼の声が届く。 「起きなさい、バリー!」
その瞬間、バリーの目が見開く。確かに、見慣れた部屋だった。バリーは辺りを見回すが、スピラーン神父の姿は無かった。 「アン!」 バリーはよろめきながら起き上がると、浴室へ向かった。 ドアを開けると、バリーはその惨状にたじろいだ。浴槽に溜められた水にアンが浸かっている。その水は、血で真っ赤に染まっていた。 だがバリーは咄嗟に、まだ助かると感じた。酷い頭痛に襲われながら、彼女を抱き上げる。左手首から流れ出る血を、タオルで押さえながら止血し、彼女の身体を毛布で包んだ。 彼女を抱き上げ、アパートの外に出たバリーは、タクシーを拾い、病院へ向かった。
一時間後、連絡を聞きつけたジョージが、病院の救急病棟に駆けつけてきた。一目散にベッドで横たわるアンに駆け寄るジョージの顔が、青ざめている。 アンは大量の睡眠薬を服用し、出血もしていたが、命に別状は無かった。だが、あと数分遅ければ助からなかったかもしれないと、医師から告げられていた。 「どうして・・・こんな事に?」 アンの手を握っていたジョージが言った。バリーは、彼を病室から呼び出すと、二人はエントランスの外に出た。 バリーは、アンが父親ジョナサンに受けた“傷”を話し始めた。ジョージは以前に聞いたと言うが、バリーは話していないことがあると付け加えた。 バリーは絶対に思い出したくも無い記憶を辿りながら、言葉を選んでジョージに話していった。 「そんな・・・そんな事が・・・」 ジョージは涙を浮かべる。 「アンは、独りで耐えていたのか?」 バリーは小さく頷く。 「それだけじゃない・・・」 バリーは続けた。 「俺も、あの男と同じことをした」 「・・・どういう意味だ?」 その意味を、まだジョージは掴めていない。 「アンの身体に、触ったんだ」 「・・・嘘だろ?」 バリーは、ジョージの目を見据えた。彼は、バリーの真意を量ろうとしている。 「ヘザーも、気付いてた。彼女が死んだのは、そのせいだ」 「お前が、そんなことをする筈が無い」 ジョージはバリーの襟首を掴んだ。 「嘘だと言え!」 「アンは、あんなに美しいんだ。触らないほうが、どうかしてる」 ジョージはバリーを殴った。倒れたバリーは、それでも続けた。 「お前はアンに触ったのか?お前が、遅すぎるんだ!」 倒れたバリーに馬乗りになり、ジョージは殴り続けた。やがてその拳を止めると、ジョージは涙を流した。 「信じてたのに・・・」 「だからお前は・・・何もかも俺に劣るんだ!」 血だらけになったバリーは、それでも笑みを浮かべながらジョージを罵倒した。ジョージはまたバリーを殴る。 「消えろ・・・!」 ジョージは倒れているバリーを睨み付けた。 立ち上がったバリーは、ジョージの顔も見ることなく、その場を立ち去った。彼は、心の中で何度もジョージに詫びていた。 「こうするしか、ないんだ・・・」 バリーは静かに、一筋の涙を流す。 「お前だけが、頼りなんだ・・・」 後ろを振り返ることもなく、バリーは歩いた。 「俺はアンの傍に、いられない・・・」 手で血をぬぐいながら、バリーは歩いた。 「ジョージ・・・アンジェリアを、頼む・・・」
翌日、バリーは父親・ジョナサン・タウバーとの和解案を呑み、ベトナムへ志願した。
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