このアルバイトには、もう一つの“特権”があった。従業員用の食事、いわゆる“まかない”である。 この店のオーナーがイタリア系アメリカ人2世で名をエンツォ・ロベルタといい、“食事”は人間が生きていく中で、“絆”や“愛”を知る最も重要なものであり、“家族”である従業員にも、それを分かち合いたいというものだった。このロベルタオーナー、見掛けは女遊びが激しそうな“やさ男”だったが、いつも人懐っこい笑みを浮かべながら、常に店の客や従業員に気を配っている。バリーはこの男が気に入っていた。 その日の“まかない”も、バリーはドギーバックに詰め、家に持ち帰ろうとしたとき、ロベルタがバリーに話しかけた。 「また家で食べるのか?」 バリーは答える。 「家族にも食わしてやりたいんだ」 ロベルタはバリーに手で待つように合図をすると、キッチンに向かい、程なくして戻った。手には紙袋を携えている。 「今日のメインの残りだ。この店の名“セルボ”は、鹿という意味だ。旨い鹿だから、たっぷり食え」 ロベルタは手に携えていた紙袋を渡すと、お得意の笑みを浮かべた。 「ありがとう。恩に着るよ」 バリーは、こんな小さな思いやりが嬉しかった。 受け取った紙袋がまだ温かい。早く帰って、アンジェリアにも食べさせてやろうと思っていた。彼女はここ数日、ろくに食事をとらなかった。痩せ細っていくばかりだったが、旨い料理なら食べるかもしれない。そう思うと、足は自然と軽くなり、いつの間にか走っていた。
アパートに着くと、バリーは部屋のある二階に駆け上がった。ポケットから鍵を出し、部屋に入ろうとした時、ふと上の階に気配を感じる。見上げると、誰もいない。嫌な予感がし、すぐに部屋に入った。 「アン!」 名前を呼ぶが、誰もいない。瞬時に上の階に感じた人の気配は、アンジェリアだと悟った。
屋上に上ると、ニューへイブンの街が見えた。夜の暗がりの中に、明かりが揺らめいている。その一つ一つの明かりに、確かに命が宿っていた。それぞれの“営み”があった。 アンジェリアは温かそうな明かりに見惚れていた。心地よい風が、彼女の頬を優しく撫でていく。全てを、終わらせたかった。アパートの屋上の端まで来ると、下を見た。ほんの一瞬で終わる。そう思い、足を進めた瞬間、身体に衝撃を感じた。 気が付くと、夜空が見える。腰に誰かの手が絡んでいた。背中に気配を感じた。自分はまだ生きている。 「死なせて!」 バリーがアンの背後から腰を掴み、後ろに倒れこんでいた。 「駄目だ!」 アンは腰に絡んだバリーの腕を、強引に剥がそうとする。 「もう、終わらせたいの!」 「駄目だ!」 バリーは剥がされた左腕を、アンの頭に回し、彼女にしがみついた。 「もう嫌なの!」 「何が嫌なんだ!」 バリーの腕を剥がそうとするアンの力が強くなる。 「私なんて、必要じゃないもの!」 「そんなことはない!」 どこからこんな力が沸いてくるのだろうというくらい、アンの抗う力が強くなる。 「それに・・・」 アンは叫んだ。 「貴方にだけは・・・知られたくなかった・・・!」 その瞬間、バリーは激しい耳鳴りと共に、頭に“声”が響く。 あの眠りと覚醒の“間”に聞こえた、スピラーン神父の“声”だった。聞こえなかった筈の“声”をバリーは聞いていたのだった。 「私は、そんな女じゃない!」 アンが叫んだ後、バリーは静かに、彼女の耳元で優しく囁いた。 「分かっているよ・・・」 さっきと明らかに違う雰囲気のバリーの“声”に、アンは落ち着きを取り戻していく。 「君は、悪くない・・・」 アンは、バリーの“声”に奇妙な違和感を感じた。 「君は、やさしい女の子だ・・・“リトル・アン”・・・」 バリーはアンの頭を優しく撫でる。アンの身体にしがみついていたバリーの腕から、次第に力が抜けていく。 「私には分かる。君は、天使なんだ・・・かわいい天使・・・」 その優しい“声”に、アンジェリアは大声で泣いた。彼女の泣き声は、人間らしい、血の通った泣き声だった。
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