デボア家の血を引いていた父親のグスタフ・イバニセビッチは、自分の中に流れるオーストリア人の血を恨めしく思っていた。 セルビアは、スラブ人を二級市民として抑圧してきたハプスブルグ家を敵とみなし、オスマン帝国とオーストリア=ハンガリー帝国によって分断されていたセルビア人の土地を統一する”大セルビア主義”を掲げていた。 それを信奉していた父・グスタフは、祖国に忠誠を誓い、息子のアレクセイにもそれを強要した。アレクセイは、そんな”狂信的”ともいえる父親に対して、幼い頃より嫌悪感を露にしてた。 だが、ベアトリスとの幸せな結婚という”幻想”を抱いた彼は、士官学校時代に、教官だったディミトリエビッチ少佐に会い、財務省の手先となっていた”黒手組”のメンバーとなった。
それが、ベアトリスへの愛だと、信じていたからだ。
ディミトリエビッチ少佐は「アピス」と呼ばれていた男だった。ギリシヤ語で”蜂”、アラビア語で”雄牛”の意味だが、サーブ・クロアチア語では不気味な響きがある名前だった。 彼は軍参謀本部配属の大柄な情報将校であり、セルビア統一を目指した民族革命家でもあった。 グスタフ・イバニセビッチの素性を知った上で、ディミトリエビッチ少佐は、教え子であったアレクセイを可愛がっていた。 彼はアレクセイの話に耳を傾け、ベアトリスとの結婚を祝った。 「あれほどの美人だ。お前が惚れるのも、当然だろう。グスタフが何故彼女との結婚に反対するのかは理解に苦しむが、彼には、私から言っておこう」 ディミトリエビッチ少佐には情報将校でありながら、民族革命家という顔を持っていたが、仲間や部下に対しては、細やかな気を配っていた。
そんなディミトリエビッチ少佐をアレクセイは師と仰ぎ、”大セルビア主義”に傾倒し、それが全ての”正義”と信じるようになっていった。
アレクセイの透き通った水色の瞳に、冷徹な色が浮かび始めていた。
1912年、セルビアは軍備を増強し、オスマン帝国とブルガリアを撃退。 第一次バルカン戦争である。 多大な死傷者を出したが、広大な土地と国民の威信を得た。 ディミトリエビッチ少佐は重病の為に戦線に参加出来なかったが、”黒手組”のメンバー達は各地で、数多くの功績を挙げた。
アレクセイもその一人で、翌年13年まで続いたこの戦争により、二階級特進で大尉に昇進していた。
その間、ベアトリスは一度妊娠の兆候を見せたが、すぐに流れてしまっていた。
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