アレクセイは彼女の目の前で、その手紙を、破り捨てた。彼は祖国へ帰るつもりなど、毛頭無かったのだ。 外国人の、その上障害者ともなれば、アレクセイの父・グスタフは、この結婚を許す筈がなかった。 「貧しくとも、慎ましやかに、二人で生きていければいい」アレクセイは、そう考えていた。 しかし、耳が聞こえないというハンディを背負っていたベアトリスにとっては、生きることさえ難しい時代だった。 人々は自らを優位に立たせるために、侮蔑の対象として、彼女の存在が必要な時代だったのだ。 人々が彼女に辱めの言葉を浴びせる度に、アレクセイは喧嘩に明け暮れた。 「私は平気だから、貴方が怒っては駄目よ」と手話で話すベアトリスに、その憤りを、彼は何度も彼女に向けてしまう。 二人の間に亀裂が生まれ始めた時、アレクセイに近付く、一人の男がいた。 男は”デボア家”の使いの者だと名乗り、アレクセイを”後継者候補”だと告げた。にわかには信じがたい話であったが、彼は男の話に耳を傾けていた。 「デボア家の後継者候補として、”第一の試練”を受けなさい」 男は、そう言った。 「ベアトリスを連れ、祖国セルビアへ戻るのだ」 1903年にセルビア国王アレクサンダルと王妃ドラガを暗殺した、ドラグーディン・ディミトリエビッチ少佐が結成した組織、”黒手組”へ入ることが、”第一の試練”だと男は言った。 「祖国へ戻れ。それが、お前とベアトリスが生き残る、最後の手段だ」 アレクセイは迷ったが、追い詰められ、一切の思考が停止していた彼は、”第一の試練”を呑んだ。 それが、ベアトリスと幸せに生きるための手段と、信じて疑わなかった。
「だが、それが全ての間違いだった」 ジャン・デボアが、小さく呟いた。
ベアトリスを連れ、祖国セルビアへ帰国したアレクセイは、父親・グスタフ・イバニセビッチにベアトリスを紹介する。 聾唖者である彼女に対しての父親の反応は、予測した通りだった。 「その女との結婚は、許さん」 「貴方の望み通り、私は軍へ復帰します。そして、ディミトリエビッチ少佐の”黒手組”へ入るつもりです」 アレクセイの応えに、父親は言葉を詰まらせた。 「その代わり、ベアトリスとの結婚を承諾していただきたい・・・」 ディミトリエビッチ大佐に賛同していた父・グスタフは、軟弱者であったアレクセイにも傘下に入ることを強制していたからだった。
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