薄暗い部屋の中で、男の怒号が辺りに響いた。目の前に浮かんでは消える男の顔。その顔には怒りと憎悪が満ち溢れている。 女が叫んだ。その顔は恐怖に支配されている。男は女に拳を振り上げた。鮮血が飛び散る。人間を殴打する鈍い音。何度も繰り返される、鈍い音。女は次第に動かなくなっていく。 気付くと、少年は男の背中から食卓の椅子を振り下ろした。椅子は激しい音と共に砕け散る。その衝撃で、男は膝を着いた。男の額からゆっくりと血が滴り落ちる。少年は迷わず暖炉にあった薪を手にすると、男を背後から殴り続けた。 人間を殴打する鈍い音。何度も繰り返される、鈍い音。少年は手を見た。鮮血がその手にまとわり付く。少年は声にならない叫び声をあげた。 叫び声とともに、ベッドから飛び起きる。辺りを見回した。いつもの、自分の寝室だった。 「悪い夢でも見たの?」 背中を冷たい手が触れた。ロレーナだった。 スピラーンは彼女を抱き寄せ、その存在を確かめるかのように身体を触っていった。 夢で激しく揺らいだ鼓動が静まりかけたとき、スピラーンはバリーのことを語り始めた。バリーが毎晩のように父親にひどい折檻を受けているということ、彼の身体は傷だらけで崩壊寸前だったということを、ロレーナに話した。 「そんなに酷かったのね」 二人はバリーが父親に折檻を受けているかもしれないという疑惑は、以前から薄々気付いていたが、それはジョージを介しての話だった。 「彼はそれでも何も言わなかった。いや、何も言えなかったんだ」 スピラーンは沈黙を守ろうとするバリーの気持ちを理解した。自分ひとりだけなら、彼は迷うことなく助けを求めに来た筈だった。だが彼は、マーサと、たった一人の妹を守っていたのだ。あの小さな身体で、酷い傷を負いながら。 「ロレーナ」 彼女を抱きしめながら、スピラーンが囁いた。 「僕は昔、人を殺したことがあるんだ」 ロレーナは驚くことなく、静かに、スピラーンの言葉に耳を傾けた。 「僕の父親は失業してから酒に溺れるようになってね、身体の弱い母親に仕事をさせ、日々の酒代を稼がせていたんだ」 スピラーンの脳裏にあのときの、母親の疲れた顔が蘇った。 「僕も母親が殴られないように、自分たちの食べる分を削ってでも、母親の変わりに働いたよ。その分、父親に対する憎しみは増していくばかりだった」 本の頁をめくるように、記憶の断片を組みなおし、彼はゆっくりと語り続ける。 「ある晩のことだった。父の怒りが頂点に達したんだ。原因はあまり覚えていない。あいつは、身体の弱かった母親を殴り始めたんだ」 人間を殴打する鈍い音。何度も繰り返される、鈍い音。 「やめさせようと、夢中だった。気付くと、父はピクリとも動かなかったんだ」 震える少年の血だらけの手を、母親が優しく握った。 「母は、僕に逃げろと言ったんだ。父親を殴った薪を僕の手から奪うと、母は僕を家から追い出したんだ。逃げろと叫びながら。逃げたよ。何も考えず、ひたすらに」 草を掻き分ける音。激しく移り変わる景色は狭まり、やがて意識を失くした。 「気付くと、そこは教会だった。そこで神父に助けられたんだ」 柔和な笑みを浮かべる神父から、銀のロザリオを受け取るスピラーン。真ん中には大きな緑の翡翠が埋め込まれていた。 黙って耳を傾けていたロレーナは、起き上がるとスピラーンの頬を撫でた。その瞳には、光る涙を溜めている。そんな彼女を、スピラーンは愛おしく感じていた。 「ロレーナ」 スピラーンは彼女の瞳を見つめながら言った。 「もしも、もしも僕がこの街を捨てて、あの人たちを捨てて、バリーとリトルアンを連れてアイルランドに逃げようと言ったら、君は着いてきてくれるかい?」 人一倍責任感の強いスピラーンの口から出た言葉だった。この街を捨ててまで、逃げることは出来ないはずのスピラーンが、自分を庇った母の為に、幼い頃の自分の為に、たった一人の少年のために、全てを投げ打ってまで守ろうとしている。ロレーナにはそれが良くわかっていた。 「どこへでも行くわ」
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