「まさか」 スピラーンは少なからず困惑していた。 「もう、五年にもなるんです。ご主人様が、坊ちゃんを毎晩鞭で殴るのは」 スピラーンは奥歯をかみ締めた。 彼はアイルランドの貧民層の出身で、幼い頃は失業してずっと家にいた父親に毎日のように殴られている経験があった。体の弱かった母親を働かせ、自分の酒代の為に息子たちを働かせていたのだった。彼もまた、自分の父親を憎んでいた。 マーサに案内され、スピラーンのピックアップはバラの咲き誇るタウバー邸に入った。そこは19世紀末に建てられ、当時は140人の奴隷を使っていた豪農の邸だった。 大理石を敷き詰めたエントランスを入り、中央の階段から踊り場に出ると、階段は二手に分かれていた。マーサは右方向に足を向け、2階に上がった。廊下から幾つもの部屋の前を通り抜け、突き当りの部屋の前で立ち止まる。そこが、バリーの部屋だった。 スピラーンが静かにドアのノブを回すと、気配に気付いたアンジェリアがスピラーンに飛びつく。彼は笑顔を浮かべアンの頭を優しく撫でると、ゆっくりと彼女を床に下ろした。 「心配ないよ。大丈夫だ」 スピラーンはバリーが横たわるベッドに腰掛けると、真っ青になった彼の額に手を当てる。燃えるような熱さが手のひらを伝わってきた。 「ひどい熱だ!」 スピラーンが背中を見ようとしたとき、バリーの意識が戻った。 「駄目だ!」 彼は朦朧としながらも、誰にも自分の体に触れさせようとしなかった。しかし、スピラーンは何も言わずにバリーの頬をやさしく撫でる。バリーははっきりと意識を取り戻した。 「スピラーン神父!」 バリーは困惑した。 「バリー、背中を見せなさい」 「駄目だ」 「見せるんだ!」 スピラーンが静かに一喝すると、バリーは視線を落とし、俯いたまま背を向けると、上着をゆっくりと脱いだ。 「これは」 思った以上に、ひどい傷だった。5年にも渡る無数の傷が背中の皮膚におうとつを作り、全体に腫れ上がっている。何箇所かどす黒く変色して、昨晩の傷から出血していた。隣でその惨状を見ていたアンジェリアがマーサにしがみつく。 「マーサ、飲み水と体を冷やす為の氷を持ってきてくれ」 マーサが急いで部屋を出た。 ノルマンディ上陸作戦で従軍神父を務めていたとき、銃弾を受けて一命を取り留めていた兵士たちが数日後に、バリーと同じ症状で死ぬのを何人も見ていた。“敗血症”だった。 「とにかく、水を沢山飲んで体の熱を取るんだ。いいね」 バリーに上着をかけると、彼の頭を撫でる。スピラーンの優しい言葉に彼は黙って涙を流した。 「独りで抱え込まなくていいんだ。君には、私やロレーナ、ジョージ、マーサに、リトルアンが付いているんだから」 バリーは声を上げて泣いた。憎まれ、蔑まれることには慣れていたのに、彼は愛されることに慣れていなかった。スピラーンはそっと、その震える肩を抱き寄せた。 バリーは「助けて」と、その一言が言えなかった。すべてを話せば、必ずスピラーンにまで危害が及ぶことを知っていた。ジョナサンはそういう男だった。 スピラーンにもそれは十分理解していた。ジョナサン・タウバーという男は検事としてこの土地の名士となっているが、移民ユダヤ人三世でありながらKKK団とも結託しているという噂がある男だった。 「君にこれをあげるよ」 スピラーンは首から提げていたロザリオを外すと、バリーの手に託した。 「お守りだ」 銀で出来たロザリオの中心に、大きな緑の翡翠が埋め込まれている。 「これはね、私がまだ15歳のときに私の師匠からいただいた物なんだよ」 バリーは手にしたロザリオを見た。 「その頃の私は盗みや暴力を繰り返していたんだが、師匠に出会って、神父になろうと決めたんだ。その時に貰った物なんだ」 「そんな大切なものを?」 「大切なものだから、君に託すんだ」 バリーは何かを言いかけたが、言葉を詰まらせ、そのまま押し黙った。 「いいね。今度何かあったら、私のところに来なさい」 それでもバリーは頑なに首を縦に振ろうとしなかった。スピラーンは彼の頬を撫でながら、その透き通るような薄いブルーの瞳を見つめ、こう言った。 「君はジョージの大切な親友でもあり、私の親友でもあるんだ。だから、何があっても、必ず君を、君とリトルアンを守ってあげるよ」
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