アンが1歳の時、母親のミミがある異変に気づいた。同じ年頃の子供と違い、アンは全く泣かないのだ。夜泣きも、ぐずったりもせず、笑みを浮かべることさえも無かった。 "学習障害"(LD)である。ミミや、人種差別主義者の父親、ジョナサンにとって、それは死刑宣告にも近いものだった。ジョナサンにとってアンジェリアはタウバー家の"恥"であり、ミミにとって"他人"だった。彼らの両親は、"異質"を認めようとしなかったのだ。 だが、アンを見捨てなかった女性がいた。黒人メイドのマーサだった。彼女はアンを積極的に外に連れ出し、花や草木をその手に触れさせ、根気よく彼女に語り掛けた。そしてアンが4歳になったある日、彼女に言葉が生まれた。彼女はこの世に生を受けて、生まれて初めて口にした言葉が、バリーの名だった。 その甲斐あって彼女は表情豊かな、明るい少女になっていった。だが昨年、小学校に進学したアンは成績不良の為、たった一年間で落第してしまった。全く文字を読むことも、書く事も出来なかったのだ。それを恥じた父親のジョナサンは、学校を辞めさせ、アンを屋敷に幽閉しようとした。気に病んだマーサは、二人の両親が不在の時を見計らい、彼女を屋敷から出していたのだった。 バリーはアンジェリアを嫌っているわけではなかった。むしろ、彼は彼女を可愛がっていた。ところがジョージと出会って以来、アンを突き放すようになっていった。いつも自分の後を着いてまわるアンが、邪魔な存在に感じる時があった。 水辺で遊ぶアンとジョージを見ながら、バリーは何も無い空間に放り出されたような、とても奇妙な孤独を感じていた。
陽が西に傾き始めた頃、三人は家路に着き始めた。アンがいる為に、いつもより早く切り上げたのだった。丘を下り、自転車を置いた場所までバリーは一言も口を開かなかった。その様子を察したジョージが何かと話し掛けようとするが、バリーはそれでも口を開かなかった。彼の怒りは、全てアンに向けられていた。それでも彼女は少しも臆することは無く、ジョージとの会話を愉しげに続けていた。 自転車を手で押しながら歩いていると、赤いピックアップが向かいから砂埃をあげて走ってきた。 「ママだ!」 ジョージが大きく手を振った。それに気付いたのか、目の前でピックアップが停まり、運転席から髪を一つに結い上げたジーンズ姿の女性が降り立った。 「迎えに来たわよ、ジョージ」 ジョージがその女性に走り寄り、二人が抱き合った。彼女はジョージの母親、ロレーナ・スピラーンだった。 「こんにちは、ミセス・スピラーン」 顔を赤く染めたバリーが、固い表情で言う。 「バリー、"ミセス・スピラーン"じゃなくて、ロレーナでいいのよ」 ロレーナが膝を屈し、目線をバリーに合わせると笑顔を浮かべ、バリーの頭を撫でた。 「良い子ねバリー。今日は何が釣れたの?」 「に、虹鱒」 そう言うと、川で釣り上げた虹鱒をロレーナに見せた。 「凄く大きいわ!バターでムニエルにして、レモンを絞ると、おいしいのよ!」 バリーはロレーナの笑顔につられて、笑顔を見せた。手にした虹鱒をロレーナに手渡し、貴方に差し上げますとバリーが言ったが、彼女はそれを自分たちだけで食べるのは勿体無いと、虹鱒をバリーのバスケットに入れ直した。 バリーは少し、寂しげな表情を浮かべた。ロレーナの表情も、それに追随する。 「ロレーナ!」 ロレーナのジーンズを引きながら、アンが彼女の足に抱きついた。 「リトル・アン!」 ロレーナはアンを抱き上げ、二人の男の子以上に、彼女との再会を喜んだ。 バリーがアンをロレーナに紹介した時、その風貌と誰からも愛される天使のような笑顔に魅せられ、いつのまにかアンを"リトル・エンジェル"と呼ぶようになり、本当の娘のようにアンを愛した。 「そうだ、良いこと思い付いたわ!」 アンを抱き上げたまま、ロレーナが言った。 「まだ陽も高いんだし、みんな家にいらっしゃい!バリーの釣った虹鱒で、ムニエルにするの。私が作るわ!」 その言葉にアンが喜んだが、二人の少年は駄目だと重い言葉をロレーナに告げた。その表情を読み取ったロレーナはバリーの頬を撫でると、ごめんなさいと謝罪した。
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