ぱらんぽろん 音が鳴る 僕の頭の中で しゃぼん玉が膨らんで、弾けて、また膨らんで。 ぱちん。 目が覚めた。 憂鬱な今日の始まりだ。時計は9時を過ぎていた。このところこの時間にしか起きれない。なんだか胸に何かがつっかえているようでなかなか布団から出ることができないのだ。 30分ほど布団のなかでもぞもぞしてからようやく僕は枕もとに置いたiphoneを手に取った。 パネルをタッチして、メールボックスを開いた。案の上。企業からメールが届いていた。そしてやはりと言うべきか不採用の連絡であった。 胸がズシリと重くなった。何もかも面白くない。この世界は 灰色だ。僕はもう一度布団にくるまることにした。しばらくは動きたくないのだ。
就職活動をはじめてもう半年以上になる。
就職氷河期と世間は言うが、僕の大学の同期はすこぶる好調で、5月の半ばである今や、友人の多くはリクルートスーツを脱いでしまっていた。 彼らが高らかに内定自慢をし、学生生活最後の夏休みの過ごし方を相談している横を僕は何喰わぬ顔で通り過ぎる、ように努める。 しかしそれは頗る困難なことであり、僕は耳をダンボにしてしまう。そんな自分が情けなくて、消えてしまいたくなる。 大学に行けども、授業に出席する気分にはならずぶらぶら校内を歩いていた。木々は青く染まり始め、夏の匂いが聞こえて仕方がなかった。リクルートスーツに身を包む自分が情けなくて仕方無かった。 僕はとにかく傷つきやすい人間になっていた。世界が自分を憎んでいる、そう思えて仕方がなかった。成績は悪くない方であるし、テニスサークルにも所属していた。顔もそれなりだという自負がある。何が間違っているのだろうか。緊張しいであることが恐らくはその要因であると僕は推察していた。あまりにも緊張すると、頭が真っ白になり、顔はリンゴの如く赤面し、如何ともしがたい状況になる。なぜこのような不利な性質を身に着けてしまったのか。それには果たしてきっかけなるものが存在したのかどうかはまるで思い出せないのである。
学食には見るからに表情の明るい輩がわなわなしていたため僕は回れ右し、周囲に人がいないベンチをめざし、そこでだらしなく横になった。 空は憎たらしいほど青くて気分が滅入ったので僕は目を閉じた。
「だーれだ?」 誰でもいいよ。そう思いながら目を空けると園田真奈美が僕を見下ろしていた。くりくりした目。ふんわりとボブに整えられている髪。僕の大学の中では、まあ可愛い部類に入るだろう。 「久しぶり学校でみた」 「最近来てなかったからな」ぼくは体を起こした。 「暑いよね〜」真奈美も真っ黒なリクルートスーツに身を包んでいた。 「就職決まりそうな気がしないんだけど」 「新聞記者めざしてるんだっけ 特に興味は無かったけど僕は聞いてみた。 「うん。でも全部落ちちゃった」 彼女はそう言ってカラカラと笑った。僕が思うに真奈美は頭の切れる女の子ではない。マスコミにはむいてなかったのだろう。
初めて彼女と言葉を交わしたのは三週間前だ。
真奈美と僕は一緒のクラスに所属していながら三年間会話を交わしたことも無ければ視線を合わせたことも無かった。この女とはかかわりを持たないで卒業するのだろうと僕は思っていた。 その日は土砂降りだった。僕は朝からとある企業の説明会に顔を出していた。システムエンジニアを募集している会社だった。特に業界自体に興味が無く、早起きしたせいで途方もなく眠かった僕はついうとうとと居眠りをしてしまった。するとそれまで笑顔で事業内容を話していた30半ばの精悍な顔つきの人事の男が、いきなり僕に対して怒声を飛ばした。眠るくらいなら出ていけ、というのである。言われなくても出ていきますとも。他の学生の視線を集めていることを感じながら僕は外に飛び出した。雨は相変わらず降り続けていた。傘を会場に忘れてしまったことに気が付いた。しかし、取りに戻るのも癪なので僕は雨の中をずんずん歩きつづけた。スーツはすぐにびちゃびちゃになってしまった。なぜかすがすがしい気分になった。 横断歩道の向こうに桃色の傘が躍った。 リクルートスーツに身を包んだ真奈美だった。彼女は泣いているように見えた。無視して通りすぎても良かったのだけれどその時はなぜか彼女に話しかけてしまった。 「第一志望の面接中に頭が真っ白になって何も話せなくなってしまったの」そう言うと彼女は桃色の傘を放り投げた。 「つかれちゃった」 彼女は僕の胸にしなだれかかってきた。 雨は容赦なく僕たちの頭上に降り注いでいた。 風邪をひくからどこか屋根のある所へいこうと提案すると、彼女は小さく頷いた。 適当に目についたラブホテルに入った。ピンク色のネオンがけばけばしく、品のないホテルだった。 真奈美がシャワーを浴びている音を聞きながら不意に僕はラブホテルなるものに初めて入ったことを自覚した。 「ねえ、岩根君もこっちに来ない?」真奈美のかすれるような声が聞こえた。 何言ってんだと言いたくなったが、その前に彼女のセリフが僕の言葉を打ち消した。 「寂しいの」 真奈美の胸は意外と大きかった。僕らはお互いの体を流しあったあと、向かい合う形で浴槽につかった。彼女は震えているようだった。 「私、なんなんだろ。世間から必要とされてないのかな」彼女が力無げに言った。 自分が面接官だったら彼女を積極的に採用することはないだろうと僕は思った。彼女は容姿こそそれなりだが、どことなく負のオーラが感じられたのである。一緒にいるとこちらまで後ろ向きな気分になってしまいそうだった。 先に上がるよ、といい僕は風呂からでた。体を吹いて、ふかふかのバスロープに身を包んだ。すこし金持ちになった錯覚を覚えた。窓の外を見ると相変わらず雨がじゃんじゃん降り続いていた。 不意に背後に気配を感じて振り返ると、裸の真奈美がそこにいた。 彼女は僕にしなだれかかってきた。 「不安で眠れないんだよね、最近」 行為が終わった後真奈美は僕の腕の中でそう言って、しくしくと泣いた。僕は何も言わずにただ彼女の頭をなでていた。彼女の気持ちは痛いほどわかる。笑顔で道を歩いている人間を見るとふと殺したくなる衝動に襲われるのだ。 そして、工事現場でひたすら穴を掘っている中年作業員を見ると心が和むのである。自分より下がいることに安心するのである。 心に濁った膜が貼っているようで気分が晴れない。心から笑うことができない。 「この前地震が関東であったじゃん?」 「うん」 「津波で人とか家とかみんな流れていったじゃん?」 「うん」 「いっそ、津波に流されて死んでしまえたら楽だって思ってしまうんだよね。不謹慎かな?」彼女は力なく笑った。 ホテルから出ると空は嘘のようにカラッとしていた。 「俺たちはきっと世界を帰れるよ」僕はそう言って拳を突き上げた。「だから、お互い頑張ろうよ。誰かが言ってたよ。眠れない夜はあるけど、明けない夜は無いんだって」 彼女はしばらく無言でいたが、僕の指に、彼女の白くて折れそうなくらい細い指を絡めてきた。「じゃあ約束だよ。お互いガンバリマショウってことで、はい。指切りげんまーん」 僕たちは小学生に戻ったかのように指切りを交わした。 ちょっと回想が長くなってしまったがそれから彼女はキャンパスで僕を見つけるとにこにこしながら近づいてくるようになった。 真奈美は僕が学内で気おくれ無く話せる唯一の人間だった。 「岩根君は今年の夏休み何するつもりなの」 「何って」 「なんか特別な計画とか立ててないの」 「計画…一人旅、海外で一人旅しようかなとか思ってる」 そんな計画は全く頭の中には無かった、今いきなり頭に浮かんできただけだ。とりあえず、海外を放浪するのはかっこよさそうに思えたから言っただけである。 「そっかあ、かっこいいね」 「かっこいいか?」 「うん。旅人っていいよお。ロマンある。そっかそっか。はあ、海外かあ。ねえ、私さ最近ふっとこの国から出ていきたくなる衝動に駆られちゃうの。家族も、学校の課題も思い出のプリクラも、何もかも放り出して」 「なんでそう思うの」 「だって、この国ってものすごく生きていくのには辛い国だと思うから。そりゃ確かに便利だし平和な国よ。喉が渇いてもコインを入れればいつでも喉を潤すことができるし、敵国の爆撃機に脅え、逃げ惑うこともない。でも若者にとってこの国はおかしいわよ。大学を卒業した時点で職を見つけてなければ、フリーターとしてまず確実に普通以下の人生を歩まなけれなばならない。こんな国珍しいわ」 「それは君が、まあ僕もだけど、就職活動と言う競争の中で今のところうまくいってないことによる負け犬の遠吠えのように聞こえるのだけど」 「そうかもしれない。私も岩根君も負け犬なのかも。でも負けちゃいけないっていうのはおかしいわ」 僕は首をかしげたが、彼女は聞こえてないのかそのまま続けた。 「一度しかない人生なんだもん。とことん負ける人がいても、とことん勝つ人がいてもいいじゃない」 いい言葉だと思う。でもそれは僕がとことん勝つ側に回ってないと、心地よくない。僕は今までそれなりに人生を勝ってきた。一番ではないにせよ常に勝ち組だった。親の言うとおりに私立の中学校を受験し、それなりの成績をとり、高校、大学と勝ち組の道を歩んできた。そんな僕が今就職できていないという圧倒的事実を受け入れることは僕は拒んでいたのだ。
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