「ケイン、ケイン……! 」
ゆっくりと、重い瞼を押し上げたケインの顔の上には、心配そうな顔で、はばたきながら、彼の頬を揺すっていたミュミュがいた。
「……あれ? ミュミュ、どうしたんだ? 」
ケインは、野宿している寝袋から、ゆっくりと身体を起こし、伸びをした。
「何度起こしても起きないんだもん。それに、うなされてたよ」 「うなされてた? 俺が? 」
ミュミュは、こくこくと何度も頷いた。
「こわい夢でも見たの? 」 「こわい夢? そんなの見たかなぁ? 」
ケインは欠伸をすると、いつも寝泊まりしているその野原に、自分たち以外誰もいないことに気付く。
「クレアも、ヴァルのおにいちゃんも、いつもの食堂に食べに行っちゃったよ。みんなも、もうそろってたけど、ケインがなかなか来ないから、ミュミュ迎えに来たんだ」
「そっか。結構、眠ってたのか。そんなに疲れてた覚えはないんだけど……」
どこか腑に落ちない様子で、ケインは寝袋をたたみ、ミュミュを肩に乗せ、朝食を摂りに出かけた。
「よお! 珍しく寝坊か? 」
食堂に着くと、ケインに気付いたカイルが、大テーブルの、自分の隣席に招いた。
もう片方の隣にはマリスが、その隣にはジュニア、ヴァルドリューズ、クレアの順に、ぐるりと座っている。
「お前と昨夜話してた通り、今夜からは宿に泊まることになったぜ。俺も、いい加減、柔らかいベッドで寝たいしさ」
この数日、博打で勝ち続けているカイルは機嫌が良かった。
隣でスープを啜っている手を止めたマリスも、口を開いた。
「昨日はインカの香をわざわざありがとう。おかげで、ここのところ、ちょこちょこ見る悪夢からは、昨日は解放されて、よく眠れたわ」
マリスは、ほっとしたような笑顔になった。
「悪夢だって……? 」
ケインが怪訝そうにマリスを見直すと、マリスは、自分の隣で、拾って来た黒カエルを手掴かみで食べている魔界の王子に、目だけを向けた。それで、ケインは、それがジュニアの仕業らしいとわかった。
何の気なしにカエルを頬張ったジュニアが、パンをかじって、ミルクのツボを傾けるケインを、ふと見ると、テーブルに乗り出し、じーっと見入った。
「なんだよ、ジュニア。俺の顔に、なんか付いてるのかよ? 」
「……夢魔の匂いが微かにする」
ジュニアが言った。
「夢魔!? 」
ミュミュが、びっくりしたように、テーブルの上で、ぴょんと飛び上がる。
ケインが不思議そうに、ジュニアとミュミュを見る。
「夢を食べる動物だよ。魔族の中でも、ちびエルフみたいに自然派のヤツでさ、魔界でも、人間界に一番近いとこにいるから、きまぐれで、たま〜に現れたりするのさ。ああ、さては、ケイン、夢食べられちゃったんだろう? 」
ジュニアが意地悪そうに、ヘテロクロミアの瞳を歪めてみせた。
「悪い夢を食べられちゃったんならいいけど、いい夢だったら大変だよ。いい夢が減っちゃって、そのうち、悪い夢しか見れなくなっちゃうんだよ」
ミュミュが心配そうな顔をして、ケインを見上げた。
「う〜ん、昨日、夢なんか見たっけ? 」
思い出そうとするケインであったが、何も思い出せそうにない。
「ほ〜ら、やっぱり食われたんだ。だから、思い出せない」
ジュニアが食べかけの黒カエルを、ぶんぶんとケインの目の前で振った。
「気色悪いなぁ。やめろよ」 言いながら、ケインは、不思議な感覚に、一瞬捕らえられた気がした。
「……そう言えば、なにかしら夢を見たような気がする」 と、宙を眺めながら、うすらぼんやりとした記憶を辿る。
「……なんか、不思議な、夢とも、そうでないようにも思えたんだ。……そうだ、女の人がいた」
それまで食事を続けていた者までが、手を止め、彼に注目した。
「色が白くて、切れ長の緑色の瞳に金色の髪……やたら赤い唇が印象的だった。……そんな人が現れて、その後がよく思い出せないんだけど……」
「ケインが女の夢をねえ。……ああっ!? 」
カイルが突然大声を上げたので、ケインも、一行も驚いた。
ケインの襟元を掴んだカイルは、襟を開けた。
「何すんだよ! 」
「お前、これ……口紅(ルージュ)じゃねえの!? 」 「ええっ!? 」
ケインが驚いて自分の胸元を見下ろすと、確かに、赤々と、はっきりとした唇の形の赤い跡が、鎖骨と胸にいくつも付いていたのだった。
「こんなの、いつの間に……? 」
一行も驚いて、彼の胸元を覗き込む。
彼は、咄嗟に隣のマリスを見た。マリスも目を丸くしている。
「こいつぅ! さては、昨日、俺と酒飲んだ後、誰か女引っかけたんだろー? お前も、なかなか隅に置けないな! 」
カイルが彼の首を抱え込み、じゃれ始めた。
「知らないよ! 俺は、あの後、普通に帰っただけだよ! 」
「珍しく寝坊したのは、そういうわけだったのかあ! 随分と情熱的な女だったんだなあ! やるじゃねーか! 」
「違うって! 」
ケインが必死に言い訳するのは、マリスに当ててであった。彼女にだけは、誤解されたくなかった。
だが、必死の面持ちでマリスを見る彼には、彼女は、単に物珍しそうに自分を見ているだけで、少しでも不快に思っている様子は感じられない。
それが、彼の言い訳を信じていないから、というようには見えなかったのは、ケインにとっても救いであったが、かといって、妬いているようにも見えず、それに対して、がっかりしている自分にも気付く。
彼女に、ほんの少しでも希望を抱くのは、甘い考えだと、すぐさま、彼は悟った。
「これ、取れないよ。ヘンだよ」 ミュミュが、ケインの鎖骨をぺたぺた触って言った。
「ほ〜らな、やっぱり、夢魔の仕業だぜ」
得意気な笑みを浮かべたジュニアが、カエルを口に入れ、騒動に幕を降ろした。
腑に落ちないままのケインであったが、一行は、そんなことなどすぐ忘れ、もう話題にすることもなく、朝食後は、さっと宿を決め、荷物を運び入れた。
その際に、宿屋の主人が言う。
「お客さん、もうすぐ朝礼が始まる。悪いけど、あんたがたも出てくれないかね? 」
「なんだよ、それ? 町のしきたりだかなんだか知らねえが、よそモンの俺たちには、関係ねえだろ? 」
カイルが肩をすくめた。
「いや、今、この町にいる者全員に、お達しがあるそうなんだよ。だから、旅人にも出てもらいたいんだと」
「……ったく、しょうがねえなあ」
カイルは、皆にも、肩をすくめてみせた。皆も、不思議そうに、顔を見合わせていた。
「……ということでして、えー、我が町内での細かな行事その他のことは、引き続き、町長であるこのワシが行い、あー、領主様に納めて頂いていた年貢は、祭司長様にお願いすることとなりました。えー、つきましては――」
街の広場には人々が集まり、正面には、小太りな初老の男が、木をくり抜いて作った拡声器を手に、もたもたと喋り、一行は人混みの後ろから、要領の悪い、長い話を聞いていた。
町長が下がると、今度は、真っ白な法衣をまとった、祭司長と紹介された老人が、進み出る。その横には、対照的な、黒いマントの、中背の痩せた男が立っている。
祭司長は、いちいち言葉を区切り、語尾を強めて話す癖があった。そのため、祭司長という物々しいイメージよりも、威勢のいい商売人の爺さん、といった方がふさわしいと、一行には思えた。
「……と、いうわけでぇ、領主様代行は、祭司長であるこのワシが行う。年貢を納める期日なぞは、今までと、一緒で、良い。そして、今日は、その記念として、祭日とする。商人たちは、前もって知っとるので、準備は整っておるぞ。今日は、存分に楽しもうぞ! 」
町民たちの歓声が上がった。
「へー、そりゃあ、いいことだ」
カイルが嬉しそうに、隣のケインに言った時であった。
「なお、その収益金の六十五%は、ワシが預かり、年貢と神殿の基金とする」
町民たちがざわついている中、一行には、かすかに、その祭司長の声が聞き取れた。
「……あいつ、実はセコいな」 「職権乱用だよな。ほんとに、祭司長か? 」 カイルとケインは、呆れた顔になっていた。
周りの歓声でかき消されていたが、祭司長の紹介で、隣の黒いマントの男が進み出る。祭司長は、拡声器を、男に手渡した。
男は、冷たい目で町民たちを見回してから、拡声器を口元へ運んだ。
「お初にお目にかかる。諸君、私は、魔道士の塔本部から派遣された、ドーサという者だ」
男は、マントの中から、てのひらほどの、紫色をした平たい石を取り出し、皆に、ゆっくりと見せた。
魔道士たちの使う、ルーナ文字というものを、模様化した銀色の刻印が、されている。
「『魔道士の塔』の印だわ」 クレアが、マリスと頷き合ってから、ケインたちに耳打ちした。
魔道士ドーサは、手にしていたものを懐に戻してから、先の平坦な口調のまま続けた。
「今回、私がこの街へ来たのは、諸君への忠告のためだ。まず、諸君の領主であったものの敷地、あそこにある森は、妖魔が棲み着いている。火を放って、完全に燃やしてしまった方が、良いだろう。その作業は、即刻やり給え」
ドーサは、横柄な物の言い方であった。
一見、中年くらいの年齢だが、眉間に刻まれた縦皺と、こけた頬に、鋭い目付きが、一般的には悪人面に見えてしまう、損な外見であった。
加えて、横柄な命令口調は、魔道士ではない他の普通の人間を、見下しているようにも取れてしまうため、祭日を喜んでいた時とは一変し、町民の間からは、口々に文句が出ていた。
「なぜ、そんなこと、あんたに命令されなきゃ、なんないんだ! 偉そうに! 」 「そうだ、そうだ! 魔道士の塔が、この街に何の用だ!? 帰れ、帰れ! 」 「妖魔がいるというのがわかってるんなら、魔道士であるあんたが倒してくれたら、いいじゃないか! 」
そう喚く声がした時、ドーサの口の端が、片方だけ、吊り上がった。
「この私が、自ら、妖魔に侵されたあの森を、焼き払ってやっても良い。だが、……高くつくぞ」
町民たちは、一瞬のうちに、静まり返った。
そのドーサの表情を見れば、彼は、はったりなどではなく、確かな腕を自負しているのが、一目でわかったからであろう。
そんな中で、ケインは、「ああ、魔道士の塔は、やっぱり、噂通りがめついのかなあ」と、呑気に考えていた。
「すぐに優秀な戦士や魔道士を募り、領主の森に向かわせた方がよいだろう」
ドーサに言われた町長の小太りな男が、ぺこぺこしながら、また前に出る。
「えー、というわけで、あー、今のお話にもあったように、うー、この街にいる勇敢な者たちは、前に出て来てくれぬかのう。あー、町民でも、そうでない者でも構わぬ」
再び、もたもたと、町長が喋り出した。
「あのドーサってヤツ、森を焼き払うのはついでで、実は、ヤミ魔道士を調べに来たに違いないわ。あたしたちは、知らん顔してましょ」
マリスが、一行をさっと見回して言い、彼らも頷いた。
「その話ぃ、あたしたちが乗りますぅ〜」
甲高く、可愛らしい、甘えた声に、そこにいた者は振り向いた。 二人の女が抱き合い、ふーっと飛んで来て、舞い降りる。
ひとりは背の高い、露出度の高い黒い衣装に、長い黒髪。腰には、細い剣を差している。もうひとりは、セミロングの、ふわふわしたブロンドを、両側で真っ赤なリボンで結っている小柄な少女。
「スーにマリリンだわ……! 」 クレアが呟く。
まさに、その二人であった。
「おお! あなたがたは、賞金稼ぎの常連でいらっしゃるな!? いやあ、あなたがたであれば、安心して任せることができますな! 」
町長の面は輝き、それまでとは打って変わって流暢な喋り方となった。
一行には、例の二人は、この街の出身であるだけあり、町民の信頼を集めていることが受け取れた。
「その代わり、もらうモンは、もらうわよ」
スーが豊満な胸の前で腕を組み、町長や祭司長を見下した。
街の長からすると、魔道士の塔の男に頼もうが、彼女たちに頼もうが、どちらにせよ、高くつくには変わりはなかっただろう。
「行きましょ。あたしたちには関係ないわ」
マリスが呆れた声を出し、一行は、人混みをすり抜けていった。
|
|