僕は山中直。現在大学で教師になるための勉強をしている。
悠々自適な一人暮らしだったが、今はめったに一人で部屋に居ることはない。
「ただいまー」
部屋に入ってきたのは小門理沙。
僕の恋人、最愛の人だ。
よく僕の部屋に遊びに来る。というかほぼ毎日だが。
「お、やってるやってる」
真後ろに彼女の気配を感じる。
僕が呼んでいる本を覗き込んでいるらしい。
「ってあんまり進んでないね」
「まだ慣れてないから」
「一人の時くらい、目隠し外せばいいのに」
「やーだー」
僕が呼んでいるのは点字で書かれたテキスト。
探してみると以外にあるもんだ。
「私、お昼ご飯作ってるから。勉強頑張ってね」
理沙の足音は台所の方へ。
「今日はパスタにしようかな〜」
楽しそうな声。
理沙と一緒に泣いたあの日から、僕は一度も眼を開いていない。
理沙を危険に晒したくなかったし、この眼に頼らなくても出来ることはたくさんあった。
本当は見えるということに、僕がどれだけ胡坐をかいていたか今ならわかる。
時々、ふと思うのだ。
あの眼は。
僕に世界を見せてくれたのだと。
十歳で光を失った僕に魔眼を貸してくれたのではないか。
全く眼を使わなくなって、あの頭痛は無くなった。
きっと、僕が何も見ない世界で生きていけると確信して眠りについたのだ。
バジリスク。婆ちゃんから聞いたことがある。
名前の意味は「小さき蛇の王」。
彼の眼はあらゆる生物を殺し、その一瞥は岩をも砕いた。
果実は腐って落ち、草花は燃え上がる。水を飲めば以降百年、川は毒と化したという。
砂漠に棲むと言われるが、彼が棲む場所が砂漠になるのだ。
砂の海で一人、彼は何を思っただろう。
僕の瞳の中で、一人ぼっちの王は何を見たんだろう。
彼と僕が引き起こしたことは、どうやったって取り返しはつかない。
僕と理沙の心には、決して癒えることのない深い傷が残った。
しかし。
もう彼を嫌悪し、怖れ慄くことはない。
―決して安い代償ではなかったが―
厄介な奴だったが、僕は彼のおかげで宝物を知った。
もう彼に寄り掛かることはない。
安心して眠れ、バジリスク。
僕が眼を開くことは二度とない。
僕には愛し合う人がいるから。
僕が眼を開きたいと思うことはない。
僕の代わりに世界を見てくれる人がいるから。
見えなくても、感じるものがある。
見えないから、見つけた人がいる。
僕の何よりも大切な人。
昼下がり。
部屋にはかすかなバジルの香り。
開け放した窓から気持ちの良い風。
「散歩にいこう」
「何処へ?」
「理沙に見せたいものがあるんだ」
―終―
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