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作品名:終点「寿村」 作者:サヴァイ

最終回   3

 それからは気持ちを切り替え、仕事を淡々とこなしていった。若いときのように井戸の水を枯らすことのないように、地道ではあるが長い付き合いの顧客を大切にして、還元が少なくても、親身になってその人に合った無理のない商品を勧めて信頼された。それがまた次の顧客に繋がり、わたしの生活も心も平安になっていった。
 その間に、運転手の言っていた三十年前の殺人事件が気になり、インターネット上で調べていた。手掛かりは葉子という名前だけだった。そしてあのときから半年ほどたってようやく見つけた。『夫を殺害』の見出しで犯人である妻の名前が倉田葉子。これだと思った。動機は夫の暴力だ。殺すまでに至ったのはそのとき、葉子は妊娠しており、夫が執拗に腹を蹴ってきたからだ。葉子はエビのようにうずくまり腹をかばい続けたために、背中があざだらけになった。酔っていた夫は蹴るのをやめると布団の上に倒れこみ寝入ってしまった。その寝姿を見て、葉子に殺意が芽生えた。台所の包丁で仰向けになっている夫の腹や胸を何度も刺した。
 それが事件のあらましだった。何とも痛ましい結果だ。そんな男からは逃げ出せばよかったのに。倉田葉子。殺された夫の名は圭一。倉田圭一。
 待てよ……倉田? 引っ掛かった。そして思い出したのだ。あのバスの運転手の胸に付けられた名札は確か倉田ではなかったか。そうだ! 寿村に着くと、上着の制服を脱いでハンドルに被せた。勤務中だからおやっと不思議になって制服の胸に留められた名札を見たのだ。だが圭一ではなかった。倉田圭一は刺されて死んでいる。偶然同じ姓だっただけだろう。だが葉子と親しい。事件も知っている。何かがあるのでは。「葉子さんとこに泊まって」と言ってきたあの女性はなんだ。想像力を駆使してある仮定を立ててみた。あの運転手は倉田圭一と繋がりのある者、年からして兄弟としたら兄になるだろう。葉子は妊娠していた。いくら情状酌量しても数年は刑務所だ。獄中で無事に産んでいても葉子は育てられないだろう。どこかに里子に出されたのではないか。ふと、野菜を持ってきたあの女性が浮かんだ。どういう知り合いなのだろう。
 葉子は殺してしまった。夜、アパートの一室で、凄まじい怨念に突き動いてしまった。わたしは夢の中であいつを殺していた。殺した後の恐怖まで味わい、目が覚めた時、生きていけることにどんなに安堵したことか。
 「背負うものが大き過ぎて、……それでも生きていく」
 運転手はそう言った。葉子さんは世間を離れてあんな淋しいところで生きている。未だに人に怯えながら。そうだ! あの表情は怯えだったのだ。
 わたしはそこまで考えて、運転手に確かめようと思った。だが半年後の最後尾のバス停の行先は『寿村』ではなかった。停まっていたバスの運転手は『寿村』はだいぶ前に廃線になっていると教えてくれた。
 消えた。わたしの干渉を拒むように。消える運命の手前でわたしは自分の明かりをともしてもらったわけだ。
 不思議なことにあれほど憎んだあいつの存在が気にならなくなった。あいつはあいつの立場としてああいう人間になっただけと割り切ることができた。わたしが変わるとあいつは興ざめしたのか、わたしの成績が安定したせいか嫌味が消えた。
 そうして半年ぐらいたったある日の帰り、いつもの通り、バスに吐き出され電車に乗り換えようと改札口に向か途中、目の前を素通りした一人の男の横顔に覚えがあった。二、三歩んで「あっ!」と声が出た。あの運転手だ。咄嗟に後を追った。
 「倉田さん!」
 周りの人がわたしの叫び声に驚いた様子で見てきたが無視して走った。振り向いてきた 男は怪訝そうな顔でわたしが近づくのを見てきた。やはり倉田さんだ。
 「覚えていますか」
 「……」
 「5月頃に、寿村のバスにふらっと乗り込んで、あなたと一緒に湯銭に入った男ですよ」
 倉田さんはまじまじとわたしを見て「ああ」と頷いた。

 再会にはそぐわない軽音楽が流れている。時間待ちの構内の古い喫茶店だからざわついた雰囲気は仕方がないだろう。
 「あの後、寿村のバスは廃線になったのですね。もう一度あなたに会って葉子さんのことを聞きたいと思ったのですが、あなたもすでにやめられていた」
 倉田さんは思い起こすかのように目を細めて言った。
 「あなたのことはよく覚えています。わたしの最後の勤務でしたから」
 「えっ、そうだったのですか」
 「それに今時、寿村まで乗車されるお客さんはめったにありませんでしたから」
 その言葉に苦笑した。
 「名前に吸い寄せられるわたしみたいな者ぐらいですか」
 「ええ、だいたいが……あなたはうつろでした」
 「そうです。わたしはあのときどうかしていました」
 「でもあなたは帰りのバスに乗られましたから大丈夫だと思いました」
 「というと、乗らずに泊まる客もいたのですか」
 「そうです。だいたいの方は翌日の夕方のバスで帰られますが、二度と乗られない方も見えました」
 「わたしなんか深刻なんてものではありませんでした。男の金玉がどうのこうの言われてカーっとなってるような器の小さな人間でした。恥ずかしい限りです。でも寿村であなたと湯に入り、自然の懐に抱かれて凝りがほぐされたようでした。それにあの葉子さんという人が背負いきれないほどの重荷に耐えて生きておられるというあなたの言葉に自分の甘さを思い知った気がしました。救われました」
 「ちょっとしたきっかけがあれば気持ちというものは変われるものなんでしょうが」
 含みのある言葉だ。倉田さんは
 「いや、偉そうなこと言ってしまいました」
 と、苦笑いをした。
 「一つ聞いていいですか」
 「なんでしょう」
 「あの帰りのバスであなたが言っていた三十年前の殺人事件のことです。わたしはあれから気になって調べました。そして見つけました。葉子という名を。夫殺しの事件でした。寿村の葉子さんのことではないですか。それと殺された夫の名は倉田圭一。あなたと同じ姓です。失礼ですがあなたと関係あることではないのですか」
倉田さんの眉間の深いしわに目が行く。この人もまた重いものを背負ってきたのかもしれない。それに触れるような質問を浴びせてしまったのか。
倉田さんはいったんうつむいた顔をおもむろに上げた。
 「あのときあなたに話してしまったのはもう寿村への運転も最後だということで気を許してしまったんでしょう。いや、きっと……どこかに吐き出したかったのです。赤の他人のあなたなら話したってかまわないという甘い気持ちがあったんだと思います」
 倉田さんはそう言うとコーヒーカップに手を伸ばした。冷めたコーヒーを一口二口と気持ちを整理するように飲み込んでいく。カップを戻してわたしを見てきた視線は哀しみを残しながらも濁りのない澄んだものだった。
 「わたしはその倉田圭一の兄です。もうこの事件も遠い昔のこととして忘れられていますから話してもかまわないのですが、聞いていただくだけにしてこのままそっとしていただけますか」
 倉田さんの視線を受け止めてわたしは大きく頷いた。
 「世間の目というものは加害者にも被害者にも容赦のないものです。出獄した葉子さんの肩書きは女一人で払いのけるには重すぎました。弟が与えた葉子さんへのひどい仕打ちを償うために葉子さんの居場所として、人目につかない山奥のあの宿の仕事を斡旋しました。自分もそれまでの会社を辞めバスの運転手として寿村に通い続けて励ましてきました。葉子さんは弟を殺してしまったことの罪に苛まれて何度か死のうと考えました。あのとき、何も殺さなくても他の方法をなぜ考えなかったかと自身を責め続けていました」
 倉田さん自身も葉子さんとともにいばらの道を歩いてきのだろう。とつとつと話す中味は聞いていても辛いものだった。大きな大きな渦にあらがうこともできずに苦しみ続けるその二人の人生は何と悲しいものだろうか。それでも葉子さんは荷を捨てない。
 「傷は時が癒してくれると言います。だが消え去ってくれるわけではないのです」
 「葉子さんは強い女性ですね。それに引き換えわたしはなんと甘い人間だったか。自分のプライドにひきずられていただけでした」
 「いいえ、あの人はか弱いのです。でもか弱くても支えがあればそれを心の糧として何とか生きられるものですよ」
 「あなたの支えがあるから」
 「わたしなんかたいしたことではありません。葉子さんとわたしには同じ支えがありました。葉子さんが守った命は弟の忘れ形見でもあります。あの姪っ子がいるから……」
 言ってしまってから倉田さんはハッとした顔つきになり目を伏せた。うっかり漏らした姪っ子の存在が倉田さんにとっても支えになっているとは。手の付けられなかった弟でも兄弟として歩んだ思い出に涙することもあったに違いない。
「倉田さんにはご家族がみえるのではないですか」
 倉田さんは首を横に振った。この人もまた一人で重荷を背負って生きているのだ。二人にとって秘密の大切な存在にこれ以上他人が口を挟むことは冒涜に思えた。ようやく澄んだ湖面を濁すようなものだ。わたしの中にはその姪っ子と野菜を届けた女性が重なっていたが確認など必要ないのだ。
 その後、倉田さんと会うことはなかった。
 現在『寿村』はダムの底に沈んでいる。
 二人は名乗り出ることもなくきっと、その支えの近くでひそやかに生き続けていることだろう。



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