終点のバス停、と言っても古く朽ちている小屋があるのみだ。色褪せた昔の広告には、今は老いて芸能界を退いた女優が若いままの見事な肢体を見せて微笑んでいる。 わたしは箱を抱えた運転手の後をついて小屋から細い坂道に入った。 「おーい、いるかー」 運転手が坂道の上に向かって声を張り上げた。 どこかで小さく返事が聞こえた。坂道を登り切った先に建物があった。木造の小さな作りだ。それもかなり古い。だが普通の家屋と違って湯治のお客の宿泊所らしい構えが残っている。 葉子さんという女性は小柄で痩せたおばさんだった。見た感じでは五十代というところだろう。 運転手とは顔なじみのようで笑顔を見せていたが、後ろから現れたわたしを見た途端、笑顔が消えた。湯治に来たことを知って納得したようだが。今でもあの顔を忘れない。 「お客さん、泊まりますか」 聞いてきたのは運転手だ。帰りのバスは夕方四時に出る。泊まると帰れるのは明日の夕方となる。何も考えずに乗り込んでしまっただけだ。私は首を横に振った。 さっきの停留所で女性が運転手に渡した箱の中身は野菜だった。葉子さんはその箱を抱きしめるように抱えて建物の奥に消えた。 茶色に変色した畳の部屋を案内したのは運転手だ。木枠の窓も、朽ちて壊れそうだった。長いこと人の入った気配がない。 「ひと風呂浴びてきましょう」 鞄しか持っていないわたしを察してタオルをどこかから持って来て、彼は先に道を進んだ。新緑の木々と伸び始めた雑草の放つ草いきれの充満した空気。小鳥のさえずり。自然の営みにすっぽり迷い込んだようだ。湯屋は小さな沢の中にあった。少しぬるめの湯であったが確かにそれは温泉であった。 「今使えるのはここだけですよ。昔はこんな小さな泉水がこの沢のあちこちにあったんですがね」 その形骸らしき跡か、朽ちた木がバラバラと点在していた。 石で囲われた小さな湯槽につかりながら細い沢を隠すようにそびえたつ木々を眺めた。 静かだ。 「ここにいるとね、人の人生なんてちっぽけなものだなとつくづく思いますよ」 運転手は目を細めて木々の間に見える空を見上げている。緑の中に細く流れる青い色が遠くまで続いている。。 「ここに来る人はいるのですか」 「めったにないですよ。おたくのように湯治目当てでなく、ふらっとやって見える方がほとんどですが」 ふらっとか……きっとわたしのようにバスの名前に惹かれてだろうな。だがそんなたまにしか来ない客を迎えているあの葉子さんという人はどうしてここにいるのだろう。おののいたような瞳に何かわけを秘めているのだろうか。 が、そう考えると自分だって、実は逃避という鎧を隠しているではないか。おそらく運転手はわたしのような人間をこれまで何人も見てきていて屈託を抱えていることは見通しているに違いない。だが見通されていたとしても屈辱も恥も湧かなかった。この運転手には大きな樹を感じる。 ぬるい湯でも長く浸かっていると体の芯の懲りが緩み始め、縮こまった手足が自由を求めて生え変わっていくような心持にさせられた。 怨念を温泉の湯が包んで渓流へ連れ去り、湧き出す新しい湯が心に道を開いていってくれる。わたしは大きく深呼吸をする。刃物で解決などできない。心のありようでいかようにもなるのだ。 部屋に戻ると昭和初期を思わせるようなちゃぶ台の上に昼餉が用意されていた。新緑を眺めながら運転手と二人きりの食事をする。ごちそうとは言えないが山の幸を活かした煮物あえ物は口の中を浄化していく。誰もいない。いや葉子さんがいた。だが夕方四時に発つバスに乗る時刻になっても葉子さんは姿を見せなかった。存在を消していた。山の日没は早い。太陽は山の合間を通るだけだ。無断欠勤がたいしたことでもない心持になっていた。人生はまだ長い。山や谷はつきものなのだ。立ち上がれないほどの罪を犯したわけでもない。ガタガタ道に揺られていても気分は上を向いていた。 「葉子さんはなぜたった一人であんな所にいるのですか」 言えずにいた疑問を運転手にぶつけてみた。わたしを見た時の表情が気になってた。 人の身を心配し、聞けるほどの余裕がそのとき、自分に生まれていたということだろう。 「ごくたまにあなたのような客が来るからでしょう」 明らかにはぐらかすような物言いだ。 「わけがあるのですね」 「人には言えないこともあるのです」 運転手はそれっきりこの件はおしまいだとばかりに勤務中の姿勢に戻ってしまった。野菜を持ってきた女性を待った停留所を超えるときにはすべてが闇に覆われていた。誰も乗ってこないバスの中を無言の静けさが支配する。家の灯が目立ち始めてきたとき、運転手は時を測っていたかのように唐突に呟いた。 「三十年前にある殺人事件がありました……背負うものが大き過ぎて、それでも背負うことをやめないで生きている女がいるのです」 女とは葉子さんのことを指していたのだろうか。だがなぜ運転手はあのとき呟いたのだろう。あれはわたしに向けてというより己に言い聞かせてるような口調だった。 バスはやがて街に入り外灯や車のライトに照らされ、停留所からは勤め帰りらしい人が乗り込み始めた。いつものバスの中という雰囲気が戻ってくるとそれまでがバスごとタイムスリップしてたかのような錯覚に襲われた。駅に着いたとき運転手はほかの乗客と同じような会釈しか寄越してこなかった。
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