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作品名:終点「寿村」 作者:サヴァイ

第1回   1


 バスから降りて電車に乗り換えようと歩き出した途端、背に風がぶつかった。帰路を急ぐ一塊の風塵だと気づいて頬がゆるんだ。昨日まではわたしもその風の中にいた。わずか一日で懐かしい過去の風景となってしまったことに驚き、定年とはこういうことなのかと噛みしめながら去っていく元同胞の群れを見送った。
 最後の挨拶を終えて会社の門を出たときから、体の細胞が心臓から徐々に毛細血管へと緩んでいく。拘束時間のスイッチを切られた脳は、周りの景色を心に納めるようにゆっくり歩いていた。
 行儀よく並ぶバス発着場の一台一台に定年の挨拶を送る。喜ばしい気持ちと少しばかりの寂しさも感じていた。
 よくここまで勤め上げたと自分をほめてやりたい気分になりながら、危ないときもあったと過去が去来する。その最も大きな危機はわたしが四十代のあのときだろう。わたしは並ぶバスたちの最後尾を振り返る。
 あのときわたしは会社へ行くバス乗り場から外れ、最後尾のそこだけ別空間のようにひっそりとたたずむそのバスに乗り込んでしまった。
 『寿村』、それがバスの行先名だった。その名前に吸い寄せられた。そんな名に魅かれるほど当時わたしはおいこまれていた。それまでそんな行先のバスがあることすら気が付かなかった。残念ながらその路線は今は存在していない。だから本当にあの事が事実だったのかどうか、二十年以上も前の出来事は、近い過去に被せられ、おぼろげな夢ともなっていた。だが、こうして定年までを乗り切ることを覚悟させるきっかけとなったことは間違いない。
 あの朝、わたしの心は会社に向かずバスに乗り込む乗客に続くことを拒んだ。もちろん、頭の中ではギリギリまで葛藤があった。慣習となった通勤を止めるという行為は簡単ではない。無断欠勤なのだ。それでもバスのステップを踏めず、バスはわたしを見限って行ってしまった。わたしは目的もなくベンチに腰を落とした。そうして、発着場から次々飛び出すバスを映像でも眺めているように見送っていた。だが最後尾の一台だけは動かない。ほかの番線は出ていっては新しいのが入って朝の慌ただしさを見せているのだが、そこだけは人気のない空間ができていた。それがバスとの出会いだった。
 『寿村』の名はいかにも幸せそうな響きを持って私を誘惑してきた。運転手はわたしが乗り込むことを見越していたかのように、わたしが席に着いたとたんバスを発車させた。
途中まではほかのバスと同じように停留所に止まり、少ない乗客の乗り降りがあったが、やがて町から外れて山奥に向かう単独路線になるころは私を含めて数人の乗客のみとなった。途中何度も〈今なら遅刻ぐらいですむのだぞ〉と下車を促す常識とか理性の呼び声がしていたがとうとうここにきて戻ることの不可能を悟ったように退散してしまった。
 自分はそんなに意志の強い人間ではないと思っている。だがこのときは、反抗と意地と疲れたという感情に完全に支配されていたのだろう。先がどうなるかという見通しすら麻痺していた。
 バスは山肌に沿ってカーブしながらさらに奥深く進んでいく。最後の乗客が下りたところでいったん止まった。小さな広場になっている停留所である。誰も乗ってこない。残るはわたし一人だ。
 ここが終点? と停留所の名を確かめたが違う。
 「お客さんは湯治に行かれるのですか」
 それまで淡々とドアの開け閉めをしていた運転手が急に気安く声をかけてきた。声の調子とこっちを振り向いた顔からすると六十歳は超えている感じだ。
 湯治と言ってくるからには寿村は温泉地なのだろうか。だが聞いたこともないし、ここに来るまでにそんな看板も目にしていない。
 「湯治ではないですが温泉があるのですか」
 「いや、温泉というほど立派なものでなく小さな泉水でしたが、神経痛によく効くらしく昔は多少人が通ってきてました。でも今はだめですよ。それにこれからダムができるからいずれは水底に沈む村です」
 「はあーそうですか」
 名前とは裏腹の運命をたどる村か。とたんに自分の境遇と重なって物悲しい気持ちに襲われた。ここで降りたほうが良いのだろうかと逡巡したが、消えていく定めなら見届けよう。運転手はキョロキョロと外を伺っている。なにか気がかりなことでもあるのだろうかとわたしも運転手の動きを追っていたら段ボールを抱えた女性が小走りにやってくるのが見えた。運転手は前のドアを開けて立ち上がり、
 「今日は来ないかと思ったよ」と言いながらドアから箱を受け取っている。
 「ごめんなさい! よかった間に合って。またお願いします」
 女性が息を切らしながら箱を渡した。そして、車内をちらっと見て、私と目が合った。
 「あらっ」まるで珍しいものを発見したとばかりに顔をほころばした。
 「お客さん? 」
 「ああ、寿村まで行かれるそうだ」
 「そうなの。じゃあちょっと」
 運転手にそう断ってバスに乗り込み、奥の席のわたしに向かってずかずかとやって来ると
 「お客さん、寿村に行ったらぜひ葉子さんのところに泊まってあげて」と、前置きもなく突然言ってきた。
 畑からやって来た格好で顔は日焼けして焦げたような皮膚だがそれに負けない黒い瞳の強さに引き付けられた。
 「おいおい、そんなこと言わなくても葉子さんとこしかないよ」
 運転手が言ってきた。
 「あっ、そうか」
 その人はペロッと舌を出して見せると
 「じゃあよろしくね」と頭を下げて素早く戻っていった。
 この箱を待っていたのだろう。女性が下りるとじきにバスは出発した。バスの外から女性が運転手に手を振っている。そしてわたしの方にも。わたしは戸惑いながらも小さく会釈を返した。
 「お客さん、近くに来ませんか」
 運転手に言われて運転席の斜め横の席に移動した。左右に広がる山々が間近に迫って見える。その山々の裾野に点在する民家がある。だがよく見ると雨戸に閉じられた家が多い。
 走り始めて二時間近くが経っている。本来なら今頃、朝礼を終え、営業に飛び出しているころだ。連絡もなくわたしが出勤してこないことを気にかけてくれる同僚がいるだろうか。いや、あいつだけはきっと思い当たっているだろう。だがきっと情けない奴だと心の中で軽蔑しているだけだろう。〈事務上がりめ〉とまた怒りに襲われる。だが自分はどうだ。あいつの持つ毒に尻尾を垂れてこうして後退してるだけだ。無断欠勤なんてあいつにあざ笑いを起こさせただけじゃないか。無駄な抵抗か。いやそもそも抵抗なんて力強い意志なんかではない。逃げただけだ。
 これでも大学は出た。一応と付けたほうがあっている三流校だから、就職も難しかった。何とか生命保険会社に入り込めたが、管理事務への希望もむなしく営業に回された。面接のとき明るく元気良くと心がけたのが裏目に出たようだ。
 それでも初めは意欲的だった。知識が増えるにつれ、会話も弾み、契約件数が増えていくのが無上の喜びに感じた。それは給与にも反映されて、ますます仕事に没頭していった。夕方以降の訪問もいとわなかった。わたしは三十歳を前にしてトップクラスの営業マンに成長していた。会社の窓口の事務の女の子を口説き落とし妻にした。二人の子を得た。今思うとまるで猪か黒煙を上げる機関車だ。気炎を上げるわたしを見ても、何も感じないような所属支部の人間を〈情けない〉奴らと軽く見下げてもいた。彼らも前はバリバリの営業マンだったと知らされたときも、彼らへの同情も起きず、わたしの栄光はずっと続くと過信していた。
 だが自分の知る限りの絆を当たりつくし、新しい開拓を迫られたころから井戸の水を汲み続けているのに疲れを覚えるようになった。組む水の量が減り始めると飲み水が制限されるように、ぜいたくに慣れた生活は徐々に影が差し始めていった。熱意が冷めれば説得力も欠けて、トップクラスの座から滑り落ちていくのは早かった。気がつけば見下げた部類に属していた。子どもの教育費は逆にどんどん上がっていく。とうとう妻もパートに働きに出だした。
 惰性だった。会社に行って朝礼が終わると、みんな営業に飛び出していく。だが今日は一、二軒回ればいいかと、営業車に乗るとまずカフェに向かう。〈見下げた〉者同士で意気のない会話で終わる。そんな日々が続いていている中、この春あいつが教育部長となって赴任してきた。同期で入社したあいつは事務畑で転勤を続けるうちに出世を伴ってやって来た。わたしへの挨拶も自分より下と素早く見抜くと声音も変った。上からの目線で横柄な口調であることがすぐ分かった。
 わたしはあいつの嫌味を無視した。それがかえってあいつに火を注ぎ、嫌味はえげつない言葉も吐き出させ昨日の帰り際に
 「あんたも男の物を付けてるんだからそれらしい働きを期待しているよ」と薄笑いを浮かべたのだ。
 侮辱的な言葉だった。だが私を辱めたのはそれ以上に周りにいた者の何人かの抑えた笑いだ。小さく吹き出す笑いがわたしの全身を刃となって襲った。夜布団に入っても怒りはおさまらず、わたしの手は刃物に操られていた。それはそのまま夢に続きわたしはあいつを刺していた。人生は終わった。そのまま逃亡し崖から身を投げ、真っ逆さまに谷底に落ちる恐怖で目が覚めた。布団にいる自分を認めると人生がまだ無事だったことに大きな安堵が起きた。その安堵が抵抗を退かせた代わりにこのような逃避に代わらせたのだろうか。もうどうでもよいなどとやけっぱちになっていた。このまま消えたい。縛るもののないところへ行ってしまいたい。
 こんな思いにとらわれていたときバスがガタンと飛び上がった。間一髪で前の手すりに捕まった。
 「すみません。これから道が悪くなりますのでしっかりつかまっていてください」
 窓から見ると道のアスファルトが所々剝げておりその剝げた隙間から草が伸びていた。
 「ひどいもんでしょ」
 「直さないのですか」
 「ダム工事が始まれば直すと思いますがね」
 道への不安がわたしを現実に戻した。携帯電話などまだ普及していない時代だ。さっきの停留所に公衆電話があったな。
 「寿村のバス停に電話はありますか」
「そこにはありませんが葉子さんの宿なら黒電話がありますよ」
 全てに放棄したなら連絡などどうでもよいに違いない。だがわたしは黒電話に望みを抱いた。


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