私と出会わなければ、いや、私が嘘をついて騙しさえしなければ、夫はきっと今よりもっと幸せな“普通の”結婚生活を送っていたに違いない。 私は単なる嘘つきではなく、夫の明るい未来に陰を落とした、立派な詐欺犯である。
――罪を犯しし者、その罪を償わざるべからず 私は罪を償わなくてはならないのだ。
あの人への償い。 それは、私があの人のことを忘れず、絵に描いたような“世間並の幸せ”というやつを手にいれないことだと思っている。 それ故に私は夫が私の中で果てるのを拒むのだ。 子供を欲しがる夫には申し訳ないが、どうしても最後まで受け入れられない。 私の耳にかかる夫の息遣いが、私を掴む夫の手の強さが、あの人を思いだせと私に呪文をかけてくる。
これから先、そんな私を夫は不審に思うかもしれない。 もしかすれば、夫が他の女性になびくことだって、十分に考えられる。 そうだとしても、私は忘れてはいけないんだ。 あの人の人生を、あの家庭を壊してしまったのは外ならぬ私自信だということを……
そして、夫への償い。 それは、夫の笑顔を守ること。 仮に私が犯した罪を告白したとしても、きっと夫は私を許してしまうに違いない。 それだけの懐の深さをもっている人だし、過去のことだと割り切る潔さもある人だから。
でも、私は知っている。 妻の心が自分以外の男で埋まっていたと知った夫の成れの果てを……
私の父親は、見知らぬ男の元へ行くと言って家を出た母を、許すことなくこの世を去った。 最後まで笑うことなく、死に際、娘の私に恨み言まで残して。 幼い頃一緒に遊んで、あんなに無邪気に笑ってくれた父は、母が叶わぬ恋を再燃させその胸の内を口にした日から一切姿を見せなくなった。 あんな、父親みたいな思いを夫にさせてはいけない、そう思っている。
幸い夫は、私の本当の笑顔を知らない。 寡黙で仄かに笑む女――それが夫に見えている“私”なのだ。 それでいい。 心から笑える日が、たとえこのまま一生私に訪れなくても、それで夫の笑顔が守られるなら、それでいいのだ。
「ニチカ、大丈夫? お店着いたよ」
我に返ると、エンジンを止めた夫は私を気遣い、助手席の背もたれに肘をつきながら、私の右頬を撫でてくれていた。 大きくてあったかい。 夫の手はそのまま彼の内面を表しているかのようで、それが今の私には罪深さをより一層辛辣に感じさせる。
「大丈夫、行こう」
私はいつものように、微かに笑うとそう言って、シートベルトを外した。 そして私達は車を降り、細かな雨が降りしきる中、手を繋いで歩きだす。
「雨降ってるから、滑らないように気をつけて」
夫の優しい言葉が夏の終わりの静かな雨に濡れていく。 傍からみれば、単なる“仲のいい夫婦”なのだろうか……
隣人よ、優しくしないでください。 危うく、幸せを望みそうになってしまうから。 隣人よ、許してください。 こうやって手を繋がれるのも、私にとってはまるで、市中を引き回される罪人のようにしか感じられないということを。
降り続く雨は、前を向くことすらできずに、ただうなだれるだけの私の髪を優しく濡らし続ける。 潤みを帯びた視界には、アスファルトに打つ雨粒の小さな水紋が果てしなく見えるだけ。
今年も夏が終わる。 懺悔の時は、始まったばかりだ。
青罪
おわり
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