――ここから逃げてしまいたい
今、私の隣にいる夫に出会ったのは、ちょうどそんな時だった。 そして私は、ふたつめの大きな罪を犯した。 「詐欺」、それである。
道ならぬ恋にとって週末の会えない時間は果てしなく切ないものだった。 あの人を想う時間を意図的に減らすように、週末といえばバーに通ったあの頃。 半地下に隠れるようにあり、静かにジャズが流れる……そんな佇まいのごく小さな店だった。 本を読みながらバーボンベースのロングカクテルを2杯……それがいつも決まった過ごし方だったのだが、“怖い、逃げたい”と思うようになってからそれが少しずつ変わっていった。
夫に出会ったあの日、私は大分のんでいた。 ろくに飲み方も知らないくせに、テキーラなんかに手を出して。 「今日はテキーラですか……珍しいですね」
それが初めて聞く夫の声だった。 店の雰囲気と流れるピアノの音に薄く馴染む低音。 それがなんとも心地好かった。 顔なんかその時ちゃんと見たかどうか覚えていないが、その声だけは記憶に深い。
とにかく酔いたくて、夫が隣で当たり障りのない話をしている間途切れることなくのんでいたのに、酔えたのは体だけで脳みそまでは酔えなかった。 そんな足どりの覚束ない私を見かねたのか、夫は親切にもタクシーで家まで送ってくれた。 その車中、夫はこう言ったのだ。
「ニチカさん? もし、彼氏がいないなら、俺と付き合ってもらえません?」
どうやら夫もその店の常連だったらしく、彼にとっては私はすでに馴染みの顔のようだった。 不思議なものだ。 私はといえば、その日その時まで夫の存在すら知らなかったというのに。
しばしの間をおいて「はい」と答えた私。
酔った勢いの告白を受け入れるなんて、どうかしてると言われればそれまでだが、その時の私にとってはしょせん、不倫という不届きな行いから逃げられればそれでいいだけのものだったのだ。 笑顔で「嬉しいな」と言った夫には、そんな私の腹の中の黒い部分はみえなかったらしい。 それが彼にとって果たして良かったのかどうかは、こうして夫婦になってみてもわからないけれど。
私は人の家庭を壊し、人のご主人を奪い取るような真似をしておきながら、いざ、自分の願いが叶いそうになると、しでかした出来事のあまりの重大さに尻込みをし、逃げようとしたのだ。 貫けば、それも一つの愛に昇華したのかもしれないのに……
それをきっかけと言わんばかりに、私は7年勤めた会社をあっさり辞め、あの人の前から姿を消した。 『ありがとう』という一言すら伝えないままに。 あの人からもその後一切連絡は無かった。 それもあの人の優しさなのか。 人づてに離婚をしたのだと聞いたのはそれからだいぶ後のことだった。
こうして私は、夫の純真さを利用するだけ利用して、まんまと世間に背いた恋から抜け出したと、そう思っていた。 けれど、犯した罪は、決して消えない。 神様は「忘れた」なんて言わせてはくれないのだ。
夫に優しくしてもらう度に、嘘をついた罪悪感にさいなまれながら、それと同時に、あの人の優しさを懐かしんでしまった。
『日花、大丈夫か?』
夫に抱かれる度に、愛されるべき女ではないと自己嫌悪に陥りながら、あの人の温もりや息遣いさえ体が思い出していた。
『愛してる、日花……』
あの人が私の名前を呼ぶ乾いた声は幾度となく頭の中でこだまして、逃げた私の手枷(てかせ)となった。 そして、あの日の奥さんと娘さんの姿は、瞼を開けようが閉じようが鮮明に浮かび上がり、重い足枷(あしかせ)に。 さらには、今隣にいる夫の、何も知りえない無垢なまでの笑顔が、猿轡(さるぐつわ)となり、私にものを言わせなくする。
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