あれからもう、何年たったのだろう…… 私は、罪を犯してしまった。 それは夫に出会うより前のこと。
「不法侵入」・「強奪」
私は人の家庭に土足であがり込むような真似をして、挙げ句にその大黒柱を奪おうと家庭を壊した。 よくある不倫というやつだ。
社会人5年目にしてはじめての人事異動。 不安と緊張の毎日を過ごしていた私の足元にぽっかり空いた落とし穴だった。 当時、私には学生時代からそれなりに長く付き合っていた同い年の彼氏もいたのだが、ちょっとしたすれ違いで胸に隙間が生まれたとでもいうのだろうか。
オトナで優しい上司に惹かれてしまった。 あまりにも、あっさりと。
毎朝、笑顔で挨拶をしてくれる。 ミスをしても、叱ったうえでちゃんとフォローをしてくれる。 仕事中は声をかけるのも躊躇うほど、ぴんと張り詰めた空気をまとっているのに、たまにする他愛もない会話には子供っぽさがチラリと見える。 そして、一日の終わりには“お疲れさん”の笑顔。 初めはほんの些細な憧れ……だったはずなのに、私があの人を好きになってしまうまで、それほど時間は要らなかった。
『俺さ、うちの奥さんにプリン作ってやんのが好きなんだよ。めちゃくちゃでっかいやつ。美味そうに食べる顔が、昔からかわいくてしょうがないんだよね』
私が見たあの人の最高の笑顔はそのセリフとワンセット。 今でもあの人を思い出す時に真っ先に浮かぶのがそんな表情だなんて、都合が良すぎるだろうか。
綺麗な奥さんがいる。 可愛い娘さんがいる。
わかってる……
わかっていた。 けれど、幼い私は自分の心を制御するだけの余裕もエネルギーも持ち合わせていなかった。
『好きになってしまいました……吉岡さんのこと』
そんな私の勝手なひとことから始まって、結局はあの人の笑顔を減らしてしまった。
見てるだけ。 話をするだけ。 それでよかったはずのに、あの人に近づき過ぎた私は、時間が経つにつれて嫌気がさすくらい欲張りになった。
仕事以外の顔が知りたい。 一緒にご飯をたべたい。 同じ朝を迎えたい。 隣で生きて行きたい。 ……
『ねぇ。私、吉岡さんの奥さんになれる……かな』
あの人の心持ちを推し量ることもせず、ただただ自分の想いの重さに耐え切れなくなって、私はあの人を苦しめ、あの家族の形を歪めてしまった。 あの人の優しさにつけこんで。
そしていよいよ家族が壊れようかという時、私は初めて奥さんと娘さんに会った。 会ってしまった。 あの人の話にたびたび出てきた“綺麗な奥さん”は見る影もなくやつれ果て、“可愛い娘さん”はまるで射殺すかのように私を見たのだ。
怖くなった。
彼女達のそんな姿を予想できなかったわけではない。 いや、むしろそうなって当然の姿だというのに、いざ現実として目の前に突き付けられた自分の思いの果てが、こんなにも生気を失ったものだったのかと思ったら目眩がとまらなかった。
――逃げたい、そう思った。
ケンカも不倫も両成敗。どちらも、おあいこ…… ほんとにそんなふうに割り切れるものなのだろうかと私は思う。 そんなのは責められるべき立場にある者の、単なる格好悪い言い逃れ。 ケンカも不倫も悪いのは最初にカマをかけた方で、始めから負けが決まってる。 傷付ける相手が自分達のほかにもいて、しかもその傷が深く治癒しがたいとなると、ケンカよりも不倫の方が圧倒的にたちが悪いじゃないか。
もし、当時の私がそういうことをわかっていたら、それでもあの人に近付いたんだろうか。 そこまであの人を恋しく思っていただろうか。 掛け値なしに自分のすべてを預けようとする恋ならば、それがたとえ不倫であろうと、いつかどうにか昇華されるのかもしれない。 けれど、あの恋が「オトナ」に対する気まぐれで中途半端な憧れ、ただそれだけの行動だったとしたら、私は果てしなく馬鹿でコドモな女だったと言うしかない。
後悔ってこういうことか……
こんなふうに、時にあの頃を見つめ直すことが果たしてあの人に対する愛情ゆえなのか、それとも、自分の輝けるべき時間をあんなふうに失ったことに対する未練なのか、実のところ今となってもわかっちゃいない。 キレイな思い出にでっちあげることも出来ずに、なんとも情けないお粗末な女だと自分を嘲るしかないのだ、いまだに。
|
|