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作品名:いつもそこには、君がいて 作者:シエナ

第7回   水曜日(4)

「おっと、大丈夫ですか? 今日、だいぶ冷えてますから、中、入りましょ?」

 中に戻れば確かにあったかいだろうけど、でも今は、キーンと冴えた空気をこのまま吸っていたかった。

「もう、今日は仕事しないで帰ります。なんかスッキリしちゃって」
「そういうのも、いいんじゃないですかね。たまには頑張らない日があったって」

 “頑張らない”か。

 肩からも奥歯からも力を抜いて、こうしてただ夜風に当たるのも悪くない。

「じゃ、帰りましょうか」
「はい」

 バックヤードに戻った私は、鼻をかんで丸めたティッシュをごみ箱にポイッと捨て、机の上の書類をササッと片付けた。
 一昨日とおんなじように、かばん一つで外に出たけれど、その胸の内は全く違って、なんだかすごく気分がいい。

「お待たせしました」
「って言ってもらうほど、待ってませんけど?」
「ふふふ、それもそうですね」
「さ、行きましょう」

 駐車場に向かって歩く足どりもとっても軽くて、歩くのが妙に楽しくなる。
 きっとそれは、一昨日といい今日といい、みっともない姿を見せてしまった福田さんと、こんなふうにあっけらかんと何気ない話ができているせいだろう。
 仕事とは全く関係のない30代の無駄話をしながら歩いて行くと、駐車場のほんの少し手前で、どこからかカレーの匂いがしてきた。

「あ、美味しそうな匂い。いいなぁ。なんだかお腹すいちゃいますね」
「たしかに、腹減りましたね」

 胃の辺りをさすりながら答える福田さん。

「今日、カレー食べよっかな……まあ、レトルトなんですけど」
「ははは。なら俺もそうしようかな」
「福田さんは“手作り”の?」
「いえ、峰さんとおんなじレトルトですよ」

 レトルト?

 “愛情入り”を軽くからかってみたつもりが、思いがけない返答だった。

 あれ、もしかして……

「福田さん、一人暮らしなんですか?」
「はい、そうですけど、なにか?」
「いや、菊川くんのお誘い断ってたみたいだし、菊川くんより全然落ち着いて見えるから、てっきり彼女とか奥さんとかいるのかと思って……」

 自分からこんな話題に話を振ってしまったけれど、なんだか言ってて照れてくる。

「はい? 彼女なんていませんよ。さっき菊川さんにも言ってたじゃないですか」
「え? 言ってました?」
「言いましたよ? しかも“奥さん”って、ちょっと……」
「だって……」

 だって、彼女がいるって、そういう人が福田さんにはいるって思い込んでいたから。
 ひとりで勘違いしていたのがバレてしまって、めちゃくちゃ恥ずかしかった。

「はぁ。全然聞いてなかったんですね、峰さん。ははは」
「すみません、全然聞こえてませんでした。ふふ」


 お互い見合って笑ったそこは、一昨日私が福田さんに八つ当たりした駐車場の入口だった。

「福田さん。一昨日も今日も、ほんと、ありがとうございました」
「いえ……」
「もう大丈夫です。“いつもの私”って言ってもらえたし」
「なら、よかった」

 ようやく顔の筋肉が自然に笑顔をだすことを思い出したみたいに、自分でも“笑ってる”のがよくわかった。

「今日は笑って帰れそうです。じゃ、お疲……」
「あの、沙織さん!」


――さ、沙織さん??


 「お疲れ様でした」とお辞儀をし始めたところに、まさかの不意打ち。
 いきなり下の名前を呼ばれたことにあまりにびっくりして、“はい”という一言すら出てこない。

「あの、こんな時にあれかと思ったんですけど」
「はい……」

 な、なんですか!?

 福田さんの顔を素っ頓狂な顔で見つめるよりほかなかった。

「俺も、なんか、時間がもうないっていうか」

 なにが……

「もう、今日しか無いんで言いますけど」

 なにを……

「俺、沙織さんのこと、好きなんです」

 へ?

「俺、沙織さんのことずっと好きでした」

 こちらの様子はとりあえずお構いなしで、目の前に立つ福田さんは次々言葉を投げかけてくる。

「笑ってるとことか、一生懸命なとことか……。泣いてる沙織さんも、もちろん好きですけど、でも、俺はやっぱり笑っててほしいんです」

 一気に顔が熱くなる。

「ずっと言えなかったんですけど、このままじゃ、何て言うか……」

 誰かに想いを伝える時、人はこんなに眉をひそめるものだろうか。
 いつも笑顔の福田さんとは違う、真剣というか、どこか悲しそうな顔。
 一瞬の沈黙に私は記憶を探ってみたけれど、少なくとも自分の知る限りでは、こんな辛そうな告白は見当たらない。

「あの……福田さ……」
「俺、来月から異動なんです」

 異動!?
 

「ここに来ることも、もうできなくなるんですけど、居なくなる前にせめて、自分の気持ちだけは伝えたくて」

 居なくなるって、そんな……

「沙織さんがいろいろ大変な時に、こんなこと言うのって、なんか卑怯な気もしたんですけど、どうしても言わなきゃダメだと思って、俺的に……。すみません」
「ふ、福田さん、あの……」

 何か言わなきゃいけないことは、いくらこんな私でもわかってる。
 でも……
 プラスとマイナスの電気が同時に体を通っていったような、初めて感じる微量な衝撃で、私はまともに口を動かせないでいる。

「あの、返事とかそういうのはどうでもいいんです。ただ勝手に伝えたかっただけですから」
「でも……」
「すみません。困らせるような真似しちゃって」
「いや、あの……」
「あさってと来週の月曜の2回で、俺の巡回は終わりです。今までほんと、ありがとうございました。さ、もう車に入らないと風邪ひきますよ。お疲れ様でした」

 相手の言葉の切れ目に最後までまごついた私は、まるで息継ぎが下手くそな魚みたい。

 福田さんはペコッと頭をさげて、営業車まで小走りで駆けていき、結局なにひとつちゃんと話せないままの私が、一昨日とは反対に取り残されてしまった。
 エンジンをかけると、暖気もせずに出発した福田さん。
 その車をボーッとしたまんま見送って、それでもまだ私は動けないでそこに立ちすくむしかできないでいた。



 顔も胸も熱くてたまらないのに、こんなに苦しいのはなんでだろう?
 そんな私の網膜には、“居なくなる”と言った福田さんのあの表情が張り付いたままだった。

 この胸の高鳴りはきっと嬉しさなんかとは全然違う。



 得体のしれない強い鼓動に促され、夜空を見上げて一呼吸。
 そこにはあの円い月がある。


 あ。
 そう、月が……

 この胸の高鳴りは、当たり前にそこにあるはずの月が消えてしまうような心もとなさ。
 一日置きに福田さんに会えることが、いつの間にか私の当たり前になっていて。
 居なくなるなんて少しも考えていなかった。


 福田さん?
 走り出した営業車のバックミラーに映った私は、どんな顔をしていましたか?

 「笑っててほしい」って……
 今は無理みたいです。

 笑えませんよ、福田さん。






第2章 水曜日 了


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