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作品名:いつもそこには、君がいて 作者:シエナ

第6回   水曜日(3)

「はぁ、ほんと、どうしたんすか、フジコさん? らしくねぇミスはするは、笑ってはくれないは……。調子狂うじゃないですか」
「菊川さん、峰さんにもいろいろさ、事情ってもんが……」
「あ、もしかして、失恋とか?、なーんて。そりゃ、ないか」

 こんな“的外れ”もきっと菊川くんなりの気の遣い方で、私が言い返しやすいようにわざと意地悪な言い方をしてくれてるってことは、わかってるんだけど……
 ごめん、今は全然余裕がなくて、ただ悲しくなるだけだ。

 泣けてくる。



「売り場手直しして、そのままあがって。お疲れ様」

 目に溜まった涙に気づかれないように席を立ち、そう言うのが精一杯だった。
 なんだか、奇妙な脱力感。

「え……あ、はい。お疲れ様で……」

 菊川くんの返事を聞き終わる前に、私は通用口から外に出ていた。





 1歩、2歩、3……

 涙が落ちた。





 涙というのは一旦流れ始めてしまうと、なかなか止めようとしても止まらないもので、さっきまで菊川くんと福田さんが一服をしていた灰皿替わりの空き缶が、まるでモザイク画みたいに、涙を拭くたび足元にちらっちらっと見えていた。

 ああ、もうやだな、泣くなんて。
 そう思っても、ますます出てくる。
 1月の夜の冷たい外気は、体の中に入るとすぐ、熱い嗚咽に変化した。

 今までだって、泣きたい時は両手両足の指を折っても足りないくらいあったのに、泣きたくない今日に限ってこんなに涙が溢れてくるのは、どこまでも自分がひとりぼっちに思えてくるからだろうか。




「峰さん?」

 通用口が開く軋んだ音と同時に、私を呼ぶ福田さんの声が背中にかかった。

「すみません……あのっ……」

 だめだ、涙は全然止まってくれない。

 氷点をとっくに下回った薄暗い店の裏手で、ブルゾン姿の三十路の女が泣いている……ってどれだけの名女優が演じたって絵になりゃしない。
 しかも、ただでさえすっぴん同然で見せられない顔なのに、今の私はぐちゃぐちゃで、きっと自分の目さえ当てられない有様だ。

 福田さんに背を向けたまま、私はさらに数歩進んだのだけれども、その足を止めたのは、福田さんのこんな声だった。

「いいんじゃないですか、たまには泣いたって」

 優しい言葉をかけられるなんて、しばらくなかったから……つい、甘えてしまいたくなる。

「俺、ここにいますから」

 福田さんはそう言うとすたすたと近付いてきて、風が吹き込んでくる私の右側に立ってくれた。
 それだけで、とってもあったかかった。
 誰かがそばにいてくれることを、こんなに大きく感じたのって今までなかったかもしれない。

「……ありがとう……ございます」

 あまりに小さい私の声は、福田さんに届くまでに少々時間がかかったみたいで。

――ポン、ポン……ポン

 うつむいた私の頭に大きな手が触れたのは、受け答えにしてはちょっと時差があるかのような、ぎこちない間合いだった。



 私は泣いた。

 声を抑えて。

 涙をふいて。


 結構出るもんだな、涙って。

 ハンカチだって迷惑だよ。

 いい加減……

 あ、鼻水も。



 しばらく経って私が鼻をすすり出すと、福田さんはこんなことを話し始めた。

 営業所の暖房が4台のうち1台しか機能してなくて風邪をひいてる同僚が多い、だとか、
 所長の車だけ、いつも鳥のふんにやられてる、だとか、

 アパートの隣の小さな公園には、なぜか毎朝5時頃にラジオ体操の歌を歌いだすおじいさんが現れる、だとか、
 よく行く定食屋のおばちゃんは、何も言ってないのにいつもご飯をギュッとてんこ盛りにして出してくれる、だとか……

「どれだけ食うヤツだと思ってるんですかね。こう見えてそこまで食う方じゃないんだけどなぁ」
「その体ですもん、おばちゃんの気持ちもわかりますよ、ふふふ」

 脈絡もなにもない福田さんのおかしな話に、私はいつの間にか鼻をすすりながら相槌をいれていた。

「……あ、ようやく笑ってくれた」
「え?」

 福田さんの方を見上げると、白い息とともにいつもの笑顔がそこにはあった。
 寒さで鼻の頭が少し赤かったけれど。

「やっぱり峰さんは、笑ってる方が似合いますね」
「そうですか……ね」

 なんだかとても照れくさくて、涙と寒さのせいで出た鼻水をポケットティッシュで思い切りかんでしまった。

「ははは。それができれば、もういつもの峰さんです」
「へ?」

 いつもの私?

「今なら、菊川さんにも言い返せそうでしょ?」
「あ、うん。やっつけてやれそうな気がします」

 なんだか不思議……
 さっきまでのモヤモヤが嘘みたいに、胸の辺りがスーッとする。
 気持ちいい。



 大きく息を吸い込むと、福田さんの顔の斜め上では、白っぽくてきれいな円い月がこちらを向いて笑ってるのが見えた。

「あれ、今日は満月ですかねぇ」
「ん? あ、ほんとだ」

 福田さんもまんまるな月に向いた。

「私、なんか変な意地を張ってたのかもしれないです」
「意地、ですか……」

 二人とも月に顔を照らされながら話を続けた。



 私はもしかすると「言い訳ばっかりするな」という三上さんの言葉を、ちょっと履き違えていたのかもしれない。
 よく考えれば無理な話なのに、すべて自分で解決しようと足掻いて、しまいには自分の首を自分で締めて、落ち込んで……
 挙げ句に福田さんや菊川くんに当たってしまった。

 私が希望したあの異動は、もう無理だとさじを投げたようにみせた、ただの強がりで。
 “助けてください”と素直に言えない、十年選手のちょっと曲がったプライドだったのかも。
 それから内示に対するモヤモヤだって、引き止めてくれないかなとか、淋しいなとかっていう、精肉に対する愛着だったりもするわけで。


「ほんと、馬鹿ですよね。すみませんでした」
「いえいえ、別に気にしてませんよ」

 自分の気持ちの整理がついたせいか、下げる頭もほどよく軽くて。

「やっぱり私、まだここ、離れたくないなって思います」
「それ、いつ言ってくれるんだろって思ってました」

 福田さんにも自然とまっすぐ顔をむけることができている。

「ふふふ、すみません。あ、菊川くんにも謝らな……っ、っ、ハクション!」

 可愛いげのないデカい音を放ったくしゃみは月まで行ってこだました。


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