「毎度どうも。タチバナハムです」 「はいはーい」
一昨日の気まずさを少しでも感じさせないように、いつもの返事を返すと、福田さんもニッコリ笑ってくれた。 内心、どんな顔で挨拶をすればいいものかと思っていたから、福田さんのいつも通りの笑顔に救われた気がする。
「あれ? 今日は菊川さんが机に向かってるんですね」 「そうなんです。菊川くんがどうしてもやりたいって言うもんで」 「なんすか、それ。ほんっと今日は意地悪っすね。フジコさんがやれって言ったんでしょうが、もう!」
なかなかはかどらない苦手な仕事に、ちょっとイライラしてる菊川くんを、福田さんとクスクス笑いながら見ていた。
「あ〜、もう、福田さーん。助けてくんない?」 「あ、無理ですから、俺」
冷蔵室に発注していたブランド豚のロースとバラの真空パックをしまいながら、菊川くんのたのみを間髪入れずに切り捨てた福田さん。 こんないつものやりとりが、なんだかとても楽しくて嬉しかった。
「はぁ? どいつもこいつも俺の周りは鬼ばっかだな。しっかしなんで、いきなりこんなことさせるんですか。まったく」 「それは……、ねえ、峰さん?」
冷蔵室のでかくて重い扉を閉めながらこちらを向いた福田さんは、その距離から私の様子を伺ってきた。
思わず出た、苦笑い……
私はなぜか、内示のことを菊川くんに言えないでいた。 たとえ手が空かなくても「異動になった」とたった一言、報告すればいいのだから、いつだって言えたはずなのに。 そして、今も言うべき機会なのかもしれないのに、何故か口から出てこない。
「そろそろ私だって楽したいの!」
出てきたのは、そんなとんちんかんな理由づけ。
「えーっ、それが理由なんすか?」
菊川くんは計算機を軽く机にほうり出し、背もたれにドサッと寄り掛かってしまった。
「まだ終わってないじゃないっ」 「もう俺、頭パンパンです。やーめたー。福田さーん、遊ぼ、遊ぼ」 「なにそれ、もう!」
菊川くんはあっさり席を立つと、ブルゾンのポケットに手を突っ込みながらさっさと通用口から外に出ていった。 一服、だ。
「あの……峰さん、あのこと菊川さんには言ってないんですか?」
通用口を見つめたままの私に向かって、ちょっと心配そうに福田さんが聞いてきた。
「はい。なんか言えないでいるん……」 『福田さーん! 一服しよー!』
私の言葉を遮るように外から菊川くんの声がした。 ノーテンキな声が響く、響く。
「今、行きますって……。峰さん、すみません、ちょっと行ってきます」
持ってきた段ボールをたたみながら、福田さんも外へと出ていった。 その背中を目で追いながら、さっきまで菊川くんが座っていた椅子に座り、書類に向かった。 外壁一枚隔てた一服中の話し声を、ものすごく遠くに感じながら。
菊川くんの書いた発注や売り場展開の計画は、私のそれとはまるで対称的。 確かにデータに基づいているとは言い難いけれど、私にはない大胆な発想と度胸が羨ましくも見えてくる。
もったいないなぁ…… そう思うと、菊川くんのあのやる気無さげな態度がじれったく感じた。 まだまだ彼には伸びしろが沢山あり、この先が明るい。
対して、自分はどうだろうか…… 頭でっかちなだけで、理屈っぽくて、余裕もなにもなくなってる。 やっぱり限界なのかな。
こなれた作業のように、菊川くんの残した書類の穴埋めをする自分。 当たり障りのない数字を並べるだけの自分が、なんだか妙に虚しくなる。
「……でさ、今度の休み、合コンすんだけど、福田さんも行かない?」
一服から戻ってきた菊川くんの、相も変わらぬあっけらかんとした声に、どうしようもなくイラッときた。
「合コンですか? 俺はそういうの、パスです」 「え〜、なんで?」
気分の切替がうまいのはひとつの長所かもしれないけど、今の私はそう前向きに思えないほど、気持ちがひねくれているっぽい。 まったく笑えないでいるのだ。
「なんでって……」 「あ、彼女いんの?」 「いや、そうじゃないけど」
――バタン!
閉じようとしたファイルに、予想以上に自分の気持ちが伝わってしまったようで、物凄い音を立ててしまった。
「うわっ……フジコさん、なんか怒ってます?」 「別に」
言葉とは裏腹に、自分でも訳がわからないモヤモヤが胃袋のあたりに渦巻きはじめていた。
「別にって、ほら、怒ってるじゃないですか。ねえ、福田くん」 「いや、菊川さん、あの……」
一昨日の私を知っている福田さんは私を気遣いながら、菊川くんに返事をしている。 またしても福田さんを巻き込んでいるようで申し訳ない気もしたけれど、このにわかに沸き立った気持ちはどうにも収拾がつけられない。
「あんまり怒ると、かわいくないですよ、フジコさん」 「はぁ?」
喧嘩ごしの一声が無愛想に出てきた。 もちろん、私の口から。
いつもなら、いつもの私なら、「うるさいっ」とか「黙れっ」とか、そんな言葉を笑いながら返したはず。 でも、今はそれができないくらい、菊川くんの言葉は私の胸の何かのスイッチを押してしまっていた。
「そんなこと、菊川くんに言われたくないんだけど」 「ほら、めちゃくちゃ怒ってるじゃん。そんな怖い顔してると、嫁の貰い手なんて見つかりませんよ〜だ」
菊川くんは、いつも通り。 いつも通りの“じゃれ合い”をしてくれているのだけれど、だめだ、今の私は無理…… 怒りやらむなしさやら、あらゆるモヤモヤを閉じ込めるには、もう、ダンマリしか方法がなかった。
「あれ?、どうしたんすか、フジコさん」
“どうした”だ? そんなのわかってたらこんなことになっちゃいないし、上手く言えたところで菊川くんにはこれっぽっちもわかっちゃもらえないでしょうよ。
胸の中で、自分の消化できないイライラに敢然と口答えをしつつも、当の菊川くんには返事ができない。
「あの、菊川さん、さっきの合コンの話……」 「あーあ、ほんとかわいくねぇなぁ。これだからアラサー女子は手に負えないって言うんだよ、まったくさ……意味わかんねぇ」
なんとか話を反らそうとした福田さんだけど、どんな時でもマイペースな菊川くんにはそれは無駄だったらしく、菊川くんの言葉はだんまりを決め込んだ私の胸に次から次と刺さってくる。
“かわいくない”って? ああ、そうですねっ。 頑張ろうとしてきた分だけ、誰かに助けを求めようとする素直な部分を握り潰してきたんだから。
でも、それだって結構大変だったっての!
“手に負えない”? 面倒だってことでしょ。 歳だけとって、女としての魅力はいまひとつのくせに、扱いづらいって言いたいんでしょ!?
わかってるよ、そんなこと。 でも、自分じゃどうすりゃいいのかなんてわかんないんだもん……
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