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作品名:いつもそこには、君がいて 作者:シエナ

第4回   水曜日(1)

 ああ、俺、なにやってんだ、まったく。
 沙織さんの笑顔を見に行ったはずなのに、あんなこと言うなんて。

 あんな辛そうな顔しないでくださいよ、沙織さん。

 俺、どうすりゃいいんだ?
 これじゃ、自分の気持ちを伝えるどころじゃねぇよな。

 どうしよう。
 わかんねぇ……



*******



 スライサーの円い大きな刃を洗い終えて、バックヤードの掛時計を見ると、そろそろ夜7時になるところだった。
 刃についていた一日分の干からびた肉片は、まだ湯気のたつシンクの底でくたくたにふやけている。

 もう既に半分以上とれていた化粧は、この蒸気ですっかり落ち、ほとんどすっぴん。
 いつもなら、午後一番でパートさんに洗ってもらうところなのだが、私のミスでそれができず、反省替わりに私自身が洗うことにしたのだ。

 昨日の公休日、私は一日中異動のことや、三上さん、福田さんに言われたことを考えていて、何も手につかなかった。
 まあ、端から見ればいつもの公休日となんら変わらない、なんにもしない一日だったのだけれども。
 お酒を飲んでもなかなか寝付けず、深酒をした結果、遅刻は免れたものの二日酔いにはなったわけで、午前中は使い物にならないほどにボーッとしてて……

 そんなんだから、いつもはしない新人のようなミスをしてしまった。
 チラシ商品である和牛の肩ロースを、すき焼き用に切るはずが、なぜかしゃぶしゃぶ用に切ってしまったのだ。
 パックをするパートさんに言われるまで気付かなかった為、相当な量がしゃぶしゃぶ用の2ミリの薄切りになっていた。
 この後2、3日のうち、そんな特売計画はない。
 余計な負担を自分で作ってしまうなんて……はあ、なんか情けない。
 一人きりのバックヤードで、ため息で洗ってるのかと思うほどのため息をつきながら、ただもくもくと手を動かすしかなかった。

 洗ったスライサーの部品を組み立てていると、売り場から菊川くんが入ってきた。

「フジコさん、売り切りも終わりましたよ。手伝います?」

 菊川くんは夜が近づくと元気になるようで、今日一番のいい顔つきをしている。

「ううん、いいよ、ありがとう。それよりさ、来月度のMD計画書、菊川くん作ってくれない?」
「はい? 俺がですか?」

 年齢的には、もうマネージャーになっても全然おかしくない菊川くんだが、なんせデスクワークが苦手なもので、こうしてこまかな販売計画を立てさせようとするだけで、まるで鳩が豆鉄砲をくらったような顔をする。

「そうだよ」
「えーっ、マジっすか……」
「ファイルの場所くらいはわかってんだから、ぶつぶつ言ってないでやりなって」

 部品を組み立て終わって、最後の水しぶきを拭き取りながらそう促すと、菊川くんは頭をポリポリ掻きながら渋々デスクに向かった。
 既に半分帰る気持ちでいた菊川くんにはちょっと悪いことをしたかな、とも思う。
 でもね、そろそろ……



 座った菊川くんの背中を見てると、昔、三上さんが日報や売り場計画を書き、その後ろでこうして掃除していた頃を思い出す。

『フジコ、ちょっとこい』
『フジコ、これ、やってみ?』

 口はめっぽう悪いが、根っからの兄貴肌でホントはめちゃくちゃ優しい三上さん。
 そんな感じで、細かいところまでいつも私がわかるように教えてくれた。
 当時は、新しく覚えるということが楽しくて、それを自分で消化しながら活かせることが嬉しかったのだ。



「フジコさん、これって歩留(ぶど)まり計算するんでしたっけ?」
「さぁ〜? それは前にも教えましたよ、菊川くん」

 歩留まりというのは、仕入れた生肉ブロックを商品化する際に、食用とはならない筋や余分な脂などを除いた、商品になる部分がどのくらい得られるかという比率をあらわすもの。

 わかってるのに自信がない、めんどくさい。だからやらない。
 これが菊川くん。

 商品化は私なんかよりはるかに綺麗で、今ではランクの高い和牛ギフトのスライスは菊川くんに依頼がくるほどの腕前なのだから、日常の業務管理さえできれば申し分ない人材なのだ。

「え〜、いじわるしないで教えてくださいよ」
「だめ。できるはずだもん」

 こんな甘え上手も菊川くんらしい。
 異動までのあとひと月ちょっとで、自分が三上さんから教わったことを、ひとつでも多く彼に伝えたいな、なんて思う自分がいた。

「もう、俺が苦手だって知っててやらせるなんて、フジコさん、鬼ですね」

 計算機を片手に頭をひねっている姿が、妙に子供っぽくて笑えてくる。

「今気づいたか? ほらほら、やんな! 三上さんから文句が出ないように、ね」

 そう言ってポンポンと肩を叩くと、はぁっと大きくため息を吐き出した菊川くん。

「それは無理ですって。三上さん、俺にはめちゃくちゃ厳しいんですから。……俺、嫌われてんのかなぁ」
「ふふふ、そうかもね〜」

 “それは反対だよ”と言いかけたが、止めておいた。
 菊川くんはどこか私と似たところがあって、褒められて伸びるタイプというより、けなされて、反骨心で伸びるタイプだと思う。
 逆を言えば、優しい顔を見せるとそれに甘えて調子にのっちゃうってとこだろうか。

 三上さんもきっと、その辺はお見通し。
 私の異動が決まるとなれば、必然的に誰かがここのマネージャーになるわけだけれども、部門の人事権ももつ三上さんが何も言わないところをみると、きっと菊川くんがそのままマネージャーにシフトしてくるはずだ。
 不振続きのこの店だから、きっとマネージャーとしてのスタートはかなり厳しいと思う。
 それに備えて、今から少し頑張ってもらわなくては……

 菊川くんの横で、腕を組んで机に寄り掛かりながら、彼の手元をじーっと見ていた。

「こんなもんっすかねぇ」

 “こんなもん”か……
 アバウトっていう言葉は、多分こういう時に使うべきなんだと思う。
 いかにも菊川くんらしい。

 いろんなデータで発注量を決めるのが、基本と言えば基本だが、なんせそこのところが一番苦手な彼のことだから、まるで私にとってはギャンブルのような数字を書いていく。
 競合店が臨時休業するだとか、よほどのことが起きない限りだいたい想像したとおりに残ってしまうような量だが、そこは人に言われるより、自分で失敗した方がよく身につく。
 口を挟むのを我慢するのは、まだ私の責任のうちに失敗して覚えてほしいから。

「まずは、菊川くんの思う通りにやってみなよ」

 計算機を使うわりにそれが反映しない書類の数字を見ながら、私がそうつぶやいたところに、売り場側の出入口から福田さんが段ボールを抱えてやってきた。


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