「あ、すみません。なんだかダラダラと」 「いえ。でもまだ、話途中ですよね? 駐車場までなら歩きながらでも話せますよ?」
福田さんは特売企画の打ち合わせなどで閉店過ぎまでいることもあり、荷物の搬入などが無いときは、300メートルほど離れた職員駐車場に営業車を停めている。
「え、まだ付き合ってくれるんですか?」 「もちろん。こんな中途半端じゃ、俺も気になりますし」 「いつも、ほんと、なんだかすみません。じゃ、今、ここ片付けちゃいますから」
そう言って、広げてあった書類を片付け、バックヤードの冷蔵室の温度チェックを済ますと、お弁当箱の入った小さなバックをひとつ手にとって通用口から外に出た。
「わっ、峰さん早いっすね。もっと時間かかると思ってたんですけど」
いじっていた携帯をパタンと閉じて福田さんはそう言った。
「私の帰り支度、これだけなんです」
情けないが、化粧道具なんてろくに入っていないそのかばんを上げて見せて、笑うしかなかった。
「さ、行きましょう」
そそくさと歩きだす私……
この店は青果と精肉部門には上下のユニホームがなく、“スラックスにブルゾン”が社員スタイルなのだが、女の私はパートさんと同様“地味めのチノパンにブルゾン”が仕事着。 普段着とあまり変わらないので、着替えもせず、ついこの格好で通勤してしまうのだ。 昼休みだってご飯を詰め込むだけでなくなってしまうから、化粧直しなどする暇なんてない。
「ああ、なら早いわけですね。ははは」
福田さんに笑われるのも無理のない話だ。
「やっぱり笑っちゃいますよね。ろくにメイクもしなければ、着替えもせずに会社のブルゾンで通勤なんて……」 「え?」 「あ、ちょっとすみません」
バックヤードの通用口から社員玄関前まで行くと、勝手に玄関脇のタイムカードの打刻をしに動いた私の体。
マネージャーは“管理職”……
なまじ管理職になんてなったもんだから、拘束時間がどれだけ長くなったって、その分の残業手当なんかつきやしない。 管理職手当が申し訳程度に上積みされるだけなのだ。 出退勤を確認するためだけのこんな行動も虚しさに拍車をかけているんだろうか。
晴れているせいで余計に冷えてる空の下、駐車場に向かってゆっくり歩きながら私は話を続けた。
この店は私が来る半年前まで、利益確保のしやすい店だとされていた。 近くには競合店も少なく、立地も道路環境も良いので商圏も広かったから。 ところが、2年半前に大型ショッピングモールが出来てから状況が悪い方へと変わりだしたために、打開策として私がここに異動してきた。 部門マネージャーとしては抜群の実績を持つ三上さんの弟子なんだから、という上の人の期待もあったんだと思う。 来て半年はなんとか利益も客数も確保できていたのだが、そこにきてさらに隣県の大手スーパーもこの地域に出店をし、販売店が飽和状態…… 結果として私は、売上も利益も落とすことになった。
「でも、それはしょうがないじゃないですか。三上さんでもそうだったかもしれないし……」 「しょうがない、ですかね」
しょうがない……
一番使いたくない言葉だったはずなのに、私はここのところ、そればっかり使ってる気がする。 「言い訳ばっかりするな」と言われて、がむしゃらに身に付けてきたはずの知識や技術を総動員しても、状況好転の糸口が見つからないのだ。 来月こそは、その次こそは、と壁に向かってはみたものの、こうもやすやすと跳ね返されると、さすがに辛く、苦しくなってくるわけで……
「それからね、なんか最近虚しくなるんです。店と家の往復だけが自分の生活のすべてみたいで」
実際のところは10年もそうやって、あくせく働いてきた毎日だったはずなのに、仕事に行き詰まってからそれがやけに身に沁みてくるようになった。 毎日自分が歩いていた変化に乏しい平坦な一本道は、気付いた時には傾斜のきつい坂道になっていて、ふとこうして立ち止まると、次に踏み出す一歩先さえ見えなくなってしまってる。
32を過ぎた女がひとり……
使い道も使う時間もないお給料が、無駄に貯まっていくだけだった。
「そんなふうに考えてたら、異動願い、出しちゃってました」 「“出しちゃってました”って……。うーん、峰さんらしくないなぁ」 「はい?」
私らしくないって、どういうこと? 別に、福田さんに同情してもらえるとか、何かいいアドバイスが聞けるとかを期待していたわけではないけれど、“私らしい”という小さな単語が妙に胸を掻き乱した。
「峰さん、それで納得してます? って、俺が言えた義理じゃないのに、すみません。なんだかモヤッとするんですよね」
――モヤッとする?
そんなのは私だって頭にくるぐらい感じてる。
――納得してるか?
きっと納得なんてできてないんだとわかってはいるけれど、でも、こう落ちてしまった気持ちでは、このまま続けられそうに思えないのだ。
それなのに、
それなのに……
「福田さん。私らしいって、どういうことですか?」
痛いところをドンと突かれたせいで、波立っていた気持ちが津波となり、次から次と口からあふれ出てきてしまう。
「ねえ、私らしいってなに? どうすればいいんですか?」
駐車場の入口に着いた私たちはその場に立ちすくんだまま、私は福田さんの顔を見上げた。 福田さんのちょっと驚いたような表情に、一瞬言葉に詰まったけれど、押し寄せた感情にはあらがえず、彼に当たってしまった。
「このまま続けて、数字取れるって言える? 大丈夫って言えますか? 何も見通せないまま歳だけとっていくなんて、もう嫌なんです。怖いんです」
“何言ってんの”と自分を制止しようとする声が耳の奥で聞こえたが、それとは裏腹に口からは言葉が放たれる…… 自分でもびっくりしたが、それはそれ、もう戻せはしない。
不安に潰されている自分をさらしてしまった気まずさと、全く関係ない人に当たり散らした申し訳なさに、危なくこぼれそうになる涙をこらえながら、福田さんに背を向けた。 それがこの時、私のできる精一杯だった。
「あの、峰さん?……」 「あ、すいません。福田さんには迷惑な話なのに、聞いてもらったうえに当たるなんて……」 「いや、あの」 「だいぶ無駄に時間を使わせてしまいましたね。ごめんなさい。さ、もう帰りましょう」
顔を見ることなんて到底できるわけもなく、話を自分勝手に切り上げた私は、そそくさと自分の車へ歩き出した。 それ以上、福田さんの言葉を聞く勇気がなかったのだ。
「じゃ、お疲れ様でした。また、あさってお願いしますね」
背を向けたまま一方的に、それでもできるだけいつもと変わらないようにと大声でした挨拶は、もうガランとした駐車場にわずかにこだましていた。 背中には福田さんの気配がただあるだけ。
乗り込んだ運転席のシートは冷たくて、エンジンをかけたと同時に流れ出したカーペンターズの音楽はいつになく淋しく車内に響いてきた。
一本道で動けないでいたかと思ったら、今度は自己嫌悪の落とし穴か…… 次に会うとき、福田さんにどんな顔をすればいいのかなんて、考えられないくらいへこんでる。
もう、私ひとりじゃ、身動きひとつできないのかな。 どうしよう……
“誰か助けてくれませんか” そう言えたらどんなに楽になれるだろう。
ひとりきりの小さな空間、虚しさを通り越して自嘲の苦笑いがうっすら浮かんでくるだけだった。
1章 月曜日 了
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