さっきまで感じてた嬉しさやら恥ずかしさとは、また少し違う気持ち。 なんだろう。 鼻の奥がツンとする。
にわかに湧いたどうしようもない心細さに、ついこんな言葉がでてしまった。
「三上さん? 私、どうしたらいいんですかね」 「は?」
福田さんとはこれから物理的な距離ができるわけで、もし仮に福田さんの気持ちを受け止めて付き合うことになったとしても、いわゆる“遠距離”になる。 でも、今の私は仕事で手一杯で、福田さんに迷惑をかけるのは目にみえるようだ。 それに、しばらく恋愛から遠のいていた私には、“ただ伝えたかった”という福田さんに対して、正直なところ何をどうすればいいのかすらわからない。
「お前、何考えてんの?」 「何って」 「お前はどうなんだって」 「どうって、そんなこと急に言われても……」
受話器越し、三上さんの咳ばらいが私のモソモソした声を掻き消した。
「あ? 何が“急”だよ。昨日の今日で“はい、好きになりました”っていうのとはわけが違うんだ。あいつの2年、なめんなよ」 「2年って、だって……」 「まったくよ、なんでもかんでも言い訳ばっかりうまくなりやがって。お前、恋愛すんのが怖いだけだろ」
――怖い?
確かにそうなのかもしれない。
うまく行かなかったらどうしよう。 失敗なんかしたくない。 そんな情けない気持ちばかりが先にたって、福田さんの想いを受け止められない理由を探していただけなのかもしれない。
「お前さ、このままであいつが居なくなってもいいわけ?」 「え?」 「話、今までいっぱい聞いてもらったんだろ? いっぱい励ましてもらったんだろ? そんな男とこのまま離れても、お前は平気でいられんのかって言ってんだよ!」
耳から入る三上さんの威嚇的な大声で私の脳裏に呼び覚まされたのは、不思議にも福田さんの顔だった。 穏やかで優しい、いつものあの笑顔……
私は自分が気付かぬうちに、福田さんの存在をずいぶんと頼りにしていたようだ。 いや、もしかしたら、福田さんのことが好きだという自分の気持ちに、気付かない振りをしていたのかもしれない。 この年齢になると素敵な人に出会っても、そういう人にはたいてい彼女や奥さんがいて、福田さんに対してもそうなんだろうと思い込むようにしていたのだ。 仕事で会えるなら、別にそれ以上に近付かなくてもいいじゃないかと、まるでブレーキをかけるように。
でも…… この2年、大変ながらもこうしてやってこれたのは、福田さんの“お疲れ様”があったから。 そして、明日からもまだここでやっていきたいと思えるのは、福田さんに涙を受け止めてもらえたから。
できるなら、これからも話をしたい。笑顔が見たい。隣にいてほしい。私をもっと知ってほしい…… ――私が自分らしくいられるように。
「これからのことなんて、誰もわかりゃしねぇんだ。結局は、今どう思ってるのかってことだろ、違うか?」 「今の気持ち?」 「おう。たまに素直になったって罰は当たんねぇんだぞ、フジコ」
――グ、グーン……
冷蔵ケースの霜取りが作動した音で我にかえり、手にしていたポップの付け替えと今日の売場設定をはじめる。 さすが創業祭だけあって、かなりの還元価格。 半端じゃない忙しさになりそうな予感がする。
前の日眠れなかったのが嘘のように、夕べはぐっすりで、今朝は体が軽く感じた。 三上さんとの電話のおかげで、自分の気持ちが整理できた気がする。
仕事もプライベートも、歳を重ねるごとに少しずつ臆病になってしまって、失敗はできないと、変なプレッシャーを自分にかけていたのかもしれない。 でもそれじゃ、少しも前には進めないよ、きっと。 気持ちに素直に動いてみよう。 そう思える私がいた。
ポップを付け替えバックヤードに入ると、6時20分だった。 あと10分もすれば菊川くんも出勤してくるから、それまでにスライサーに入れる肉の成形を終わらせよう。 そう思って冷蔵室を開けようとした時だった。
「おはようございます! 峰さん、すみません。これ……」
ものすごい勢いで売場側から福田さんが入ってきた。 あまりの勢いに、緊張するとか照れるとかそんな暇もなかった。 福田さんの抱えた段ボールは今日の特売商品になる国産牛の切り落とし用の真空ブロックがゴソッと入ってる。
「おはようございます。なに、どうしたんですか、それ?」 「一昨日納品したのがほとんど真空漏れだって……」 「えっ? そうなんですか?」
息もきれぎれの福田さんの様子に、急いで一昨日納品された在庫ブロックを冷蔵室から引っ張りだした。
真空がちゃんとなってないと、袋の中で菌が繁殖して肉が傷み、商品としてはクレームの対象になってしまうのだ。 今日の特売用の40kg分の真空ブロックを作業台に出して、福田さんとひとつつずつ確認していく。
「こっちは今のところ漏れたものはないですよ?」 「うーん、こっちも大丈夫ですねぇ。……三上さんから朝一連絡があったんですよ。“困るぞ”ってかなりのお怒りで」 「三上さんから? もしかして店が違うんですかね……今、電話してみます」
残りの確認は福田さんに任せ、バックヤードから外線で三上さんの携帯にかけてみた。
「……はい、三上」 「おはようございます、峰です。真空漏れ、うちじゃないですけど、南店かどっかの間違いじゃないですか?」 「ん?……ああ、そうだったかな」
明らかになにかおかしい返答である。
「ちょっと!」 「どうだっけ……、わかんねぇなぁ、へへへ」 「三上さんっ!?」 「あ、ごめんごめん。寝ぼけて福田ちゃんに電話しちゃったみたいなんだよ〜」 「寝ぼけてって……なんなんですか、もう!」
三上さんが“ごめん”なんて口走るのは、いたずらをした時ぐらいなもんで、声の調子だってヘラッヘラもいいところ。
「それにしても福田ちゃん、もう着いたのか、早ぇな……」 「“早ぇな”じゃないでしょうが、まったく!」
静かなバックヤードでの電話のやり取りは、福田さんの耳にも届いていたようで、ホッとしたような、やれやれというような表情で在庫分のブロックを冷蔵室に片付け始めてくれていた。
「ちょうどいいじゃん、今、ケリつけちゃえば?」 「ケリ?」 「ま、そういうことだから。な、フジコ」 「あ、ちょっと、なんで朝からそん……」 「今、運転中だから、じゃ」
一方的にきられてしまった。 ケリをつけろって……“お節介は嫌いだ”が聞いて呆れる。
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