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作品名: 灰 景  作者:シエナ

第2回   2
 あれはもう、20年以上も前のこと。
 あの頃、俺が勤めていたのはいわゆる大手と言われる類いの商社だった。
 当時は今みたいに四大卒が溢れているわけでもなく、俺くらいの学歴でも“エリート”の部類として扱われた頃の話だ。
 景気も今ほど冷え込んでおらず給料もそれなり、ただその分、仕事ができることも当然要求されたものだった。

 数字だ、契約だ、と毎日際限なく続く仕事のプレッシャー。
 もともとそれほど体育会系な人間ではない俺にとって、それは次第に過度のストレスとなり、俺を蝕んでいった。
 今でいうところの“ウツ”ってやつだろう。
 まるで現代病のように持てはやされているが、“パワハラ”による“ウツ”なんておそらく今も昔も数に変化はさほどない。
 弱った者にライトを当て、その小さな声をマイクで拾ってくれる、そんなふうに世情がちょっと変わっただけのことだ。

 そんな俺でもあの日まで仕事に向かっていけたのは、きっとあいつがいてくれたから。
 いつか結婚を、と一緒に暮らしていた女――千春だ。


 千春は俺より2つ年上で、自然な笑顔がかわいらしい女だった。
 とにかく優しくて、いつも仕事の愚痴ばっかりだった俺の話を黙って聴いてくれていた。

『アキはいつも頑張ってるじゃない』

 押し付けがましさのないそんな励ましと、穏やかな笑顔にいつも俺は癒された。

 精神的な支えのみならず、疲れて何もできなかった俺の身の回りの世話からなにから、何の文句もいわずにやってくれた。
 彼女という立場ではあったものの、それはまるで妻のようで、俺達にとっては何の違和感もない当たり前のことだった。

 俺は、そんな千春にとことん甘えた。
 甘えて、甘えて……

 それでも激しく病んだ俺の心は癒やされきれず、いつのまにか、千春に手を挙げるようになってしまった。
 女に手を挙げるようになったらおしまいだ、そう自覚していたはずなのに、ボロ雑巾のようにくたびれ果てた俺の心からはいつしかそんな底辺の男気さえも消えていたのだ。


 しかしそれでも、千春は俺から離れなかった。
 何度となく、その小さな頬を青黒くしたっていうのに。
 今思えば、そんな状況に毎日置かれていたのだから、千春の方もかなりきわどい精神状態だったのかもしれない。

 手を挙げた後で必ず涙を流した俺を、千春は不思議なくらい優しく抱きしめてくれたのだ。

『ごめんね、アキ』

 震える声でそう言いながら、俺の背中をずっとずっと撫で続けてくれた。
 責めてはくれなかった。
 涙さえ流さずに、ただただ、優しくしてくれたんだ。

 でも、あの時の俺には、
 優しさなんていらなかった。


 ひとりにしてほしかった。


 惨めな自分を受け入れてくれていたはずの千春が、その時の俺の目には、俺を馬鹿にするかのように、憐れんでいるかのように映り、とうとう、息苦しくさえ思えてきてしまった。
 

 そう、あれは21年前の今日。
 2月12日の朝だった。



 俺はほとんど眠れずに朝を迎え、いつものようにコーヒーを入れ窓際でタバコを吸っていた。
 ちょうど今朝みたいなまだ薄暗い時間、マンションの6階から眺める街の景色は昼間の喧騒が嘘のように青く静かだった。
 今日もまたこの重たい体で、あのビルの海原を泳がなくてはならないのか。

 そんなけだるい時間を持て余していたところに、千春が起きてきた。


『おはよう。あ……ごめん、私がコーヒーいれてあげなきゃいけないのにね』


 それだけだった。
 千春にとっては何気ない気遣いだったはずの、たったその一言が、俺の中にあった何かのスイッチを押してしまったんだ。
 次の瞬間には手にしていたタバコもコーヒーも、俺の手から消えていた。

『割れちゃったわ……ごめんなさい』
 
 千春はそう言いながら、床に落ちたまだ火のついていた吸い殻と、割れたマグカップの破片を両手でかき集めていた。

 ――お前はどこまで、俺を憐れんだら気が済むんだ――

 気が付いたら、俺の両手の中で千春の首が潰れていた。
 歩くのがやっと、それくらいの力しかその時の俺にはなかったはずなのに、まるで腕だけが何かに操られているような、そんな不思議な感覚だった。


『アキ……』

 俺を呼ぶ声はいつもと同じ優しい声で。

『アキ……』

 千春の、まだほんのわずかに脈を打つ首の白さが、俺の目にはあまりに眩しかった。
 俺は何かをわめきながら、側にあった包丁でその白さ消すように幾重にも紅く染めていた。



 あれから21年が経ったのか。
 罪を償い、なんとか日々を暮らしていけるようになった今、思い返せば“自分の弱さ”ただそれ故に失った千春の命だと思う。

 千春に頼ることなく、自分の足であの時間を歩いていれば、お互いに別な未来があったのかもしれない。
 ただ、あの時の俺は、社会的な身分を手放す気概も、愛する人を守るために別れる勇気も、それらのカケラすら持ち合わせていなかったのだ。

 ごめんな、千春。
 今更、もう遅いけれど……


 千春?
 すべてを失って、俺は少し変われたと思ってる。
 “いい加減に生きる”、それができるようになってきたんだ。

 仕事もそう。
 地位や名誉なんか、今の職場には必要ない。
 シヅカのことだってそう。
 傷を抱えた者同士、同情みたいな生温い関係も悪くはないさ。
 昔の俺を知る人のいない今、少なくともあの頃よりは、すべてにしがみつかない生き方ができている、そう思うよ。



 ホッと息を一つ吐くと、なにやら、指先の血がやけに冷たく感じた。
 どうやら、建て付けの悪い玄関の引き戸が少し開いていて、そこから吹き込む風が血の出ていた指先を冷やしていたようだ。
 俺は片付けの手を止め、流しにあった布巾でおざなりに指先を拭い、少しでも入り込む風を和らげようと引き戸に手を掛けた。


 おや?
 風の入り込む隙間には、ネコヤナギの花穂がひとつ、挟まっていた。
 これを取らないことには、さすがにきちんと戸は閉まらない。
 そして、花穂を取ろうと戸を少し開けた時だった――


 玄関前に降り積もる真っ白な雪。
 その上に散りばめられた、ネコヤナギの銀白色の無数の花穂。
 俺はあまりに色味のないその静寂の光景に、その場を動くことができなくなった。

 穏やかで、優しくて、次から次に降り積もる雪の、わずかな音さえも聞こえない、どこまでも静かな世界。
 ふと、足元から目線を少しずつ上げると、ネコヤナギの花穂が点々と、ずっと向こうまで続いて落ちているのが見えた。

 なんだろう、この懐かしい感じは……

 遡れる限りの記憶の糸をたぐっても、これだと思い当たるような景色ではなかったが、俺はどうにも突き動かされ、その花穂を辿った。
 羽織るものさえ取らず、まるで俺の意志などあるものかと言わんばかりに、何かに引き寄せられるまま……


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