私はいわゆる仕事人間で趣味らしい趣味が無く、働き始めてから毎日、朝から晩まで仕事のことしか考えないような男だった。 だから、27でした初めの結婚は2年と持たずに破綻し、その後、上司からもちかけられた9歳下の妻との今の結婚も、“形だけ”と言われてもしょうがないような有様で……
朝早く出て夜遅くに帰り、家での食事はひと月のうちで片手で数えても余るほどで、長期出張も頻繁だった。 一人息子の子育ても妻にまかせっきり、妻と一緒の時間などごくたまに夜を共にするくらいで、それだって妻にしたら、義務のようにさえ感じていたのかもしれない。
なにひとつ夫らしいことをしないままこんな生活を続けたせいか、取締役として遠隔地での新規事業の立ち上げを命ぜられた時も、妻に相談すらすることなく単身赴任をすると決めた。 “中学を控えた息子のため”とは、ていの良すぎるたて前で、本当のところは会話もない夫婦関係に余計な神経を使いたくなかっただけのような気さえする。
そんな仕事ばかりの毎日、誰にも吐き出すことのない胸の内をブログに綴ることで、私は精神的なバランスを保っていたのだと思う。 私はとにかく、誰にも、妻にすら自分の弱みを見せたくなかった。
小さい頃、北国の漁師だった父を亡くし、女手ひとつで私を育ててくれた母がそういう人だった。 女だと馬鹿にされないように、息子が片親だと馬鹿にされないように、文字通り母は必死に働いたのだ。
「いいか、伸行。お前は勉強しろ。そして働け。母ちゃんが言えるのはそれだけだ」
外で仕事をし、帰ってからも夜遅くまで内職をしてくれた母のおかげで、私は高校まで勉強に打ち込むことができ、奨学金で大学にも行けた。 だから私はどうしても頑張りたかった。 母の通した意地に報いたかった。 仕事で会社に、世の中に認められるようになってやる、そう思って働いたのだ。
仕事にまみれたこんな私の日記に、カンナさんは毎日のように「お疲れ様」と体調を気遣うようなメッセージをくれた。 読むに堪えない疲弊しきった文章もあったろうに…… 私にはそれが、受け止めてくれることがただただ嬉しかった。
だが、なにも、妻が一言もねぎらってくれなかった訳ではない。 むしろ、どんなに遅くなっても必ず「おかえりなさい」と出迎えてくれる、できた妻であった。 日常の些細な不満のひとつも夫の私にぶつけることもなく、いつも柔らかな笑顔を浮かべて。
おそらく妻だって、私がどんな愚痴をこぼしたとしても、黙って聞いてくれたに違いない。 しかしながら、私には上司の娘である妻に対しての根深い遠慮と、それから生まれる疲れた顔を見せたくないという意地から、仕事のことは家では一切口にしなかった。 仕事人間の私が仕事のことを口にしないと、当然それは無口になり、妻とも会話がろくに続かなかったわけで……
そんな妻にも聞かせられない胸の内を、カンナさんに受け止めてもらううちに、私はいつしか、カンナさんのメッセージを待ち焦がれるようになり、彼女のことをもっと知りたいと思うようになっていたのだ。
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