キッチンペーパーで、フライパンに敷いた油をサラッと拭き取り、砂糖とほんのすこしの塩を加えた卵液を流し込むと、十分熱したフライパンは「ジュワ〜」っと、それはそれは小気味のいい音を立てている。
「おはよう」
片手に新聞を持ち、あくび混じりにダイニングに入ってきた夫は、そう私に声をかけ、テーブルについた。
「おはよう。はい、コーヒー」 「ん、ありがと。あ、誕生日おめでとう」 「え? あ、ありがとう」
コーヒーを飲みながら新聞を読む夫。 その脇で、息子のお弁当を作る妻。 結婚して17年目の夫婦の、ありふれた何気ない朝の風景…… けれどもこれは、1年前までの私達夫婦には考えもしなかった日常なのだ。
1年前の今日、私は失恋をした。 姿も声も知らない「未明」という名の男性に。 そしてその日、私は決めたのだ。 夫にもう一度恋をしようと。
未明さん、あなたは今、元気でいらっしゃいますか? あの日、あなたから受け取ったメッセージは、今もしっかりと私の胸に焼き付いています。
未明さん、今、私は幸せです。 あなたの最後のメッセージを信じたおかげで、私は夫に自分の気持ちを伝える勇気がでてきました。 嬉しい気持ちも、寂しい気持ちも、それまで押し隠していたものをすべて……
やっぱり言わなければ伝わらないのですね。 忙しい相手に迷惑がかかるから、なんていうのは、ただの言い訳…… 私は嫌な顔をされるのではと、嫌われるのではと臆病になっていただけだったのです。
あなたとのさよならは、あの時の私にとって、とても辛いものでした。 でも、あの日のあなたの言葉のおかげで、私は今こんなにも満たされているのです。
あの日「幸せになります」とあなたに送った最後のメッセージ、あなたは覚えてくれていますか? 強がりだったそんな言葉も、時が経ったら現実になっていたりもして……不思議でしょう? 私、今つくづく感じています。 あなたに会えてよかった、あなたとさよならができてよかった、と。
あの時はさよならしか言えなかったけれど、いまならちゃんと言えそうです。 あなたとの日々に感謝して。 ありがとう。 これからも、あなたの言葉を胸に歩いていこうと思います。
*****
『約束の日ですね。 これが僕からあなたへの最後のメッセージです。
淋しい時、悲しい時、辛い時、そんな時はどうか、ひとりにならないでください。 あなたのすぐ側に、きっとあなたの手をとってくれる方がいるはずです。
僕はこの1年、あなたの言葉にずいぶん支えられました。 たとえ会うことのない文字だけの相手でも、胸の内を分け合えばこんなにも繋がっていられるのですね。
ですから今日、お互いがここから消え去っても、人と繋がることを恐れるのはやめにしましょう。 僕達にはそれぞれに、深い絆を結ぶことを許された伴侶がいるのですから。
これは、僕とあなたとふたりの約束です。 これから先、どんなときも、自分の隣にいる人の手を離さないと。
僕はこれから、再び妻を愛してゆきます。 僕のあなたに対する燃やしきれない想いは、きっとそうすることで土に還ってくれると信じて。
この歳でこんな気持ちになれたこと、すべてはあなたとの出会いから始まったと思っています。 あなたと出会えてよかった。
ありがとう。
どうかあなたが幸せでありますように。
誕生日、おめでとう。
未明』
|
|