大きなキャンバスに好きな絵を描いても良い。子供であればその言葉に大喜びするだろう。言われた者が芸術家であればそれもまた喜びの感情を現すかもしれない。 しかし残念な事にアイムは子供でも無ければ芸術家でも無い。ただのしがない旅をする農家である訳で、白い紙と色とりどりの絵の具を見れば、そこには戸惑いを感じるしかなかった。 しかも絵を描いた後は、その絵を評価し、評価が低ければ紙と絵の具代を請求すると言われれば、戸惑いどころか抵抗すら感じてしまう。 「丁度今、そんな感じだよ」 周りには誰も居ない。見えるのはどこにでも居る地霊と、何も無い大きな土地であった。とある屋敷の庭として存在しているこの土地は、手入れがされていないと言えばそうでは無く、その広さに反して雑草などは数える程しか生えておらず、土もしっかりと整地されている。 だがそれだけだ。この土を耕したり、花で飾るなどの工夫はされておらず、ただそこに地面があるだけなのだ。 それもそのはず、この庭がある屋敷自体、今は人が住んでおらず、景観を汚さない様に清掃整備された場所である。必要以上の飾りつけはされていない。立派なのは木造作りの屋敷のみである。 平野が広がるこの土地で、木造建築とはそれだけ贅沢な代物であるが、庭が殺風景なせいか、あまり立派に見えない。 「元々は我が家の貸家でね。富豪ほどの財産は無いが、貧乏と言うには小金を持ち過ぎている人物を対象に貸していた。ところがこの屋敷を長く借りていた下宿人が、この度天寿を全うされたんで、一軒家として売り出そうと言う事になったのさ。君にはその付加価値として、庭にでも買い手の気が引ける物を作ってくれないかな」 自分の依頼主となったラッツは確かそう言っていた。町の中心部に程よく近いこの屋敷を、貸家として扱うのは少々非難があったらしく、その都合が付いたのを切欠に売家として扱う様になった。 実際、今もこの屋敷を買いたいと言う者は多いらしく、アイムが庭弄りなどしなくても、買い手は必要以上にあるだろうと思うが、そこは商売人、屋敷の価値を上げる事で、さらに高値で買いたいと言う者を探すつもりらしい。 「と言っても、どうすれば良いのやら」 地面の土を指で摘み、少し捏ねてみる。別にこれで土壌の質がわかる訳では無いのだが、悪く無い土地であると言うのだけは理解できた。 地霊の数だって少なくは無い。何か植物を育てようとすれば、まあだいたいの物は育つだろうと言った土地である。だからこそ、どうすれば良いのか悩む。 「迂闊な事をして、台無しにしちゃうのも嫌だしなあ。かと言って、買い手も決まっていない段階で、自分色に染めるのも駄目だろうし」 そんな事をすれば、商売人失格と、依頼は不成功で終わり、報酬が無いどころか、それまでに掛かった経費まで請求され兼ねない。 相談する相手でも居れば多少はマシなのだろうが、リュンとセイリスは別行動をしている。いつも通りの情報収集である。この屋敷を買いたいと言う人物が、どの様な傾向で存在しているのか。一般的な資産家の趣向。そう言った物があれば参考になるかもと言ったアイムの言葉に、素早く対応して町の中へと二人は消えて行った。 二人の事だから何がしかの情報は持って帰ってくるだろうが、それでも寂しいアイムであった。 「まあ、考えたって仕方無いか。何はともあれ土弄りからだろうね。畑にするのも花畑にするのも、良い土壌が必要だ」 そのためには土を耕す事から始めなければ。久々に荷物から鍬を取り出すと、なんだかやる気が出てきた。 期間は三週間程与えられている。植物がそれで十分に育つ訳は無いが、そこは商売の町、既に育った植物を植えて飾り付ければ、それだけで展示と庭をどう扱うかの説明を兼ねているのだと理解してくれるそうだ。 つまり庭を耕しさえすれば、後は労力があまり必要無い仕事が残るだけとなる。そして幾ら大きいとは言え屋敷の庭、ランドファーマーであれば一日でそれを終えるのは容易い。
一方でリュンとセイリスは町中をアテも無く歩いていた。いや、リュンは何か目的があって歩いているのだろうが、セイリスはそれを知らない。だからセイリスにとっては本当にアテの無い散歩と言える。 なんだから遣る瀬無い気分になり、つい前を歩くリュンに疑問をぶつけてしまう。 「薄々感じていた事ですけれど、わたくしだけ得に目立った役割が無いと思いますの」 仕事探しと交渉がリュンの役割で、直接仕事をするのがアイムだ。その中でセイリスがする役目と言うのは中々少ない。 セイリスの考えを知ってか知らずか、リュンはこちらを振り向くと、軽い口調で答えてくる。 「そりゃあまあ、途中参加だし仕事に自分の宗教の利益を持ち込んでくるし? 仕方ないんじゃないか?」 少々気分が落ちた状態での会話だったが、リュンの答えは落ちた気分を持ち上げてくれた。主に怒りの方へ。 「そういう言い方は無いと思いますわ。わたくしだって、リュンさん達と旅をしてから暫くになりますもの、少しくらい仲間意識を感じて下さっても宜しいじゃありませんか」 そんな言葉を口に出してから気付く。リュンがこの様な話し方をするのはいつもの事である。だと言うのに、これでは慰めの言葉を期待していた様では無いか。 「冗談だよ、冗談」 リュンは笑いながら、セイリスの感情が落ち着くのを待った。別に彼女に対して仲間意識が無い訳でも無いのだ。 彼女との付き合いで言えば、もう一人の仕事仲間であるアイムと実はそれ程変わらない。彼女の背景がどうであれ、仲間と思わないでいられる期間はとっくに過ぎていた。 「それにな、そう考えているのはキミだけでも無いだろう?」 「どう言う事ですの?」 セイリスは首を傾げる。リュンは軽い口調のままだが、そんな口調で重要な事を話す時があるのが彼だ。 「俺なんかがいなくても、キミやアイムは生活出来てたんだ。でも俺が自分で利益を得るには誰かに手伝って貰うしか無い。ほら見ろ、俺だけ仲間外れだ」 時々、詐欺まがいの行動で他人を巻き込んでしまったんじゃ無いかと思う時もあるし、それもある部分は事実であろう。だからと言って、後悔しているつもりは無い。ただ、なんだか嫌な気分になるのは事実である。 「だが、俺達がそんな事を考えているんだ。アイムだって似た様を考えているだろうさ。自分は仕事を持ってくる側じゃないから、俺達がいなけりゃあ役立たずなんじゃあ無いかなんて悩んでたりな」 だけどそんな思考は長く続かない。なんだかんだでこの旅が楽しいからだ。セイリスだってそうだろう。ただちょっと憂鬱な気持ちが、偶然言葉に出ただけに過ぎない。旅を続けて居れば、そういう事も多々あるものだ。 「結局は、深く考えたって仕方の無い事ですの? でも可笑しな気持ちになってしまうのは確かですわ」 「そうか? その気分だって、今から向かう場所を知ればなんとなく晴れるんじゃないか? 仕事先を見つければ、うだうだ考えて居ても仕方ないと思えてしまうのが俺達だ」 そう言ってリュンは前に向き直り、再び歩き出した。 「ちなみに向かう場所は、俺が仕事を持ちかけて断られた連中だ。雇っては貰えなかったが、ちょっとした情報くらいなら漏らしてくれるだろ。だけどまあ、兄貴に先を越されている事をもう一度痛感しなきゃあならないってのは、そっちの方が憂鬱になりそうだ」 ため息の一つでも吐こうとも思うが、やはり仕事だからとリュンはそれを飲み込んだ。
日が暮れる頃に三人は合流した。場所はアイムが耕していた庭を敷地に持つ屋敷である。持ち手もまだ居ないので、当面の拠点に使っても良いとのお達しがあったのである。 その屋敷の一室にて、今後を決める相談を続けるアイム達であるが、仕事について進展があったかと言えば、あったとも言えるし、無かったとも言える。 アイムは任せられた庭を植物が育て易い土壌へ出来る限り変えてみたが、やった事と言えば、自慢の鍬と手と足で、地面を柔くするくらいであった。空気を多く含ませる事で、植物が根を伸ばし易い土壌を作ると言うのは、土作りを行う上で真っ先にしなければならない事である。ただ、まあそれだけの事であるとも言える。誰だってする事をしたとしても、それでは商売にならないのだ。 植えて育てる何かを決めない限り、仕事とは言えない。 「そんな事だろうとは思ったがな。自由に何かをして良いと言われて、自由に出来る奴じゃないもんなお前」 憎まれ口を減らすことの無いリュンであるが、その言葉に落胆は混じっていない。言う通り、アイムが出来る事を予想していたからだ。 では情報収集組はと言えば、情報を集めるには集めたが、玉石混交として何が役に立つかが分からない。それでは、方向性を決めたいアイムにとってみれば、状況が殆ど変わらないのである。 「なんですかこの、最近お金持ちの間ではサボテンを育てるのが流行ってるって言う情報は。多肉植物なんて育てて何が楽しいんですか」 アイムはあの不気味に分厚い葉を持つ植物を思い浮かべる。ああいった物をアイムは嫌っている。見た目がまず受け付けないし、そもそも育てるのにあまり手が掛からないと言うのも、アイムの琴線に触れてしまうのだ。 「へえ、良く知ってるな。俺はアレがサボテンなんて名前だと言うのも知らなかったよ。初めて見た時は、植物がとうとう自分達を酷使する奴等に反逆を始めたのかと思ったが」 結局、リュンもその情報は役に立たないと判断しているでは無いか。じゃあなんで今後を決める情報の中に、そんな物が混じっているのか。 「あら、可愛らしいじゃありませんか。あのふっくらとしていて、かと思えば刺々しい一面も持っている。庭一面に育てば、それは素晴らしい景観になると思いますの」 どうやらセイリスが持ち込んだ情報であるらしい。完全に彼女の趣向が混じっている。 「ダメダメ、そんな一般受けしないのは文字通り受けない。そりゃあマニアは居るだろうけど、そう言う物を求められてる訳でも無い。屋敷を買うのは資産家でしょ? だったら、らしい物じゃ無いと」 奇をてらうのも商売の一つだが、それにはまず普遍的な物を導入してからの事だ。最初から明後日の方向を目指せば、行きつく先は山か奈落なのだ。 「らしい物ねえ。そう言った物は、だいたい既に存在する物って事だろ? それこそ商売になるのか?」 「うーん。それもそうですけど、サボテンを育てるより、こっちのブドウ栽培なんかは好みかな。らしい物でもあるし」 庭で甘い果物を育てる資産家と言えば、らしい姿に見えなくも無い。ブドウと言えば、蔦を伸ばす植物でもあるので、庭の飾りつけとしても使えたりする。 「ちょっとした手間で育てられるとも聞きますわ。わたくし達、純血教徒の本部でも育てようと言う話が上がった事がありますの」 しかしそれは恐らく失敗したのだろう。確か純血教本部は、作物を育てるより先に、土壌の改善が必要な土地であったはずだ。 「宗教には酒が付き物だからなあ。あれはなんでだ? 宗教家って言うのは酒好きが多いのか?」 相談のために囲っていた机から体を離し、椅子に座った体勢のまま仰向けになるリュン。話の進展が見えなくなり、とうとうそんな姿勢にまでなってしまった。話も脱線気味である。 「別にその様な事はありませんわ。ただ、お酒による酩酊と言うのは、心を豊かにしてくれる物と、教祖大フィルゴの自伝にも書かれていますから」 それは要するにその人物が酒好きだったと言う事では無いだろうか。ああ、駄目だ。どんどん話が脱線して行く。 そもそも、酒の話など持ち出すから……。酒? 「お酒か。それも良いかもしれませんね」 「なんだ? 農家を止めて、酒造りにでも専念するのか」 椅子に仰向けになったまま、こちらを見て話すリュン。そんな器用な事をするなら、姿勢を正せば良いのに。 「一応言っておきますけど、農家と酒造りだって無関係じゃ無いんですからね。酒の原料は作物や果物なんですから。要するに、取れた作物がその後、加工できる物なら良いなと考えたんです」 作物は消費物だから、それだけで売り物になるのだが、そこに一手間を掛けると、さらに高値で売れたりする。 では全世界の農家が何故それをしないのかと言えば、その一手間を掛けるために、そのための道具や時間など、余計な物が圧し掛かってくるからだ。 しかし余生を過ごす資産家であれば、その両方を手に入れやすい。 「この屋敷の庭を見れば分かるでしょうけど、とても大量生産に向いている場所とは言えません。けど土壌自体は良いですから、作物を植えれば育つには育ちますよね。けど大量には無理ですから、育った物に付加価値を付ける訳です。お金持ちらしいし、上手く行けば、良い売り物になります。それって、商人が多いこの町では受けるかもしれませんよね」 突発的な思い付きであるが、案外、良い線を付いて居ると思う。それに、これ以外が思い付かない現状がある。 「ほう。作物とそれを使った加工物か。確かに面白いが、それは方向が決まったと言えるのか? 結局、何を育てるか決まって居なければ進展とは言えんだろう」 リュンの発言はネガティブである。しかし仰向けの体勢から、机に体重を掛け、乗り出す姿勢になった彼を見れば、興味を持っている事は誰だってわかる。 「お酒の話で始まったのですから、お酒になる物が宜しいのでは? 保存が効く物と言うのも、優れた点だと思いますわ」 セイリスの視点は、作物よりも加工物に向かっている。そうした方が状況を決め得ると判断したのだろう。 「加工も簡単だしね。甘い物だったら何からだって作れるし。でも、だからこそ先駆者が居がちなんだよなあ」 他人の空真似であるならば、それこそ商売にならない。 「待て、加工物は売れる物じゃなければならないと言う前提があるなら、方針を決める事が出来るかもしれんぞ」 リュンの頬が歪んでいる。今にも笑い出しそうな表情だ。こう言う時のリュンは、とにかく可笑しな発想に行き着いている場合が多い。 「この国で生まれて、この国で育っているからな。この国で何が必要とされているのかは良く知っている。もし、それを作る一歩目が庭にあるのなら、十分屋敷の付加価値になる」 それはつまりラッツの要求に答える物でもあると言う事だ。 「いったい何なんですか? それって」 アイムの問いにリュンが口を開く。完全に笑いの表情となったリュンのそれは、大きく弧を描く形であった。
方針が決まれば、あとは用意だけだ。翌日には、植物の苗を探す仕事を開始し、次の日は庭にどう植えて行くかを考え、その後、漸く庭作りを始める。育てる植物は特に注意が必要である。土地の環境に合う物を選ばなければならないし、何より素人でもある程度の手間を掛ければ育てられる物じゃないと商売にならない。 「言うは易し、行動するは難しって奴ですかね。商品集め自体も、一通り自分の目を通したいし」 いざ仕事となれば、最終的な決定を行うのはアイムであった。他二人が農業に関して、経験が殆ど無いのだから仕方無いと言えば仕方無いのだが。 「おーいアイム。この苗って、土を被せるくらいで本当に良いのか? ぐらぐらして安定しないんだが」 一応、仕事自体は手伝って貰っている。農業はその行程における単純作業の頻度が多い仕事でもあるから、経験が無くとも手伝いが有るに越したことは無いのだ。 だが、こちらから指示を出さなければならないと言うのは苦手である。 「それは生命力が強い種だから良いんですよ。放っておけば、自分に適した形に根を張ってくれますから。それよりも、植物事に区分けをしっかりしてくださいね。上手くやらないと枯れちゃいますよ」 経験が無い者はだいたいそこに不安を感じるから、他者に意見を求める物である。それに対して、的確に指示をして行くのは知識が必要であるし、それ以上に、指示する事に対する慣れが必要であった。 前者には自信があるアイムであるが、後者はどうかと言われれば、正直な所、あまり自信が無い。 「アイムさん? この花はどちらに植えれば宜しかったでしょうか?」 「それ? あーえっと、あんまり背が伸びないらしいから日が当たり安い外側に……、いや、でもそうすると外観がなあ」 恐らく自分一人で作業をしていれば、悩む事も無いのだろうが、誰かに手伝って貰っている状況では、何故か混乱してしまうアイム。 腕が何本も増えた気分であった。 「とりあえず時間はまだあるんだ。日を空けてもう一度仕切りなおすってのは無理なのか?」 アイムの混乱を見て、リュンが心配そうに話し掛ける。ここでアイムが仕事を行えなくなったら、それこそお終いなのだ。 「土にはもう肥料も撒いちゃってるんですよ。今日中に植えないと、雑草が生えてきます。そうなったら、それこそ最初からやり直しですって」 だからいくら混乱していても、庭作り自体は早めに終わらせないと。 「それじゃあ、これが終われば直ぐにラッツに庭を見せるのか? 仕事が早く終わるのは良い事かもしれないが」 「早くは終わりませんよ。期限が終わるまでは苗を育てないと行けません」 農業の結果は、どれだけ手を掛けたかに決まるのだ。期限があるなら、その期間に出来る限りの作業を行う事が重要である。 「期間があると言えども、二週間程ですわ。それでどこまで育ちますの?」 「花はその季節にならないと咲かない物だから、直ぐには出来ないけど、それでも育てば見栄えは苗の状態より良くなるよ。植物は動かないからそうは見えないけど、成長速度は人よりよっぽど早いんだ」 だからこそ、その育て方には注意しなければならない。放って置けば不良になるのはどこの世界でも同じだから。 「とにかくアレコレ考えても時間が進んじゃうんだよなあ。頭を動かすより、手を動かした方が建設的だし向いてる」 愚痴を言いながらも仕事を続けて行く。指示に慣れない頭でも、動かす手が多ければ仕事は早く終わるのだ。 予定よりも庭作りは遅れたが、それでも日が暮れるまでは終える事が出来た。
事が起こったのは、期限までの期間が一週間を切った頃である。 大きな屋敷で過ごす日々と言うのはなかなかに贅沢な物で、必要以上に過ごしてしまえば、再び旅に出る事が困難になりそうなくらいに心地よかった。 アイムの気分を良くしているのはそれだけで無く、毎日行う庭の手入れが、農家としての落ち着きを与えてくれる。 今日もまた、鼻歌や独り言を繰り返しながら余計な雑草を抜く、水をやる、土いじりに肥料として何を使うかの選別など、細目な仕事を続ける。 育てる植物は、その殆どが綺麗な花を咲かす予定の植物であった。だが、季節の違いから、アイムがそれを直接目にする事は無い。しかし日々成長していく姿は、アイムを十分に楽しませてくれた。 「良いねえ。みんな元気に花を咲かせるんだぞー」 笑いながら、そんな独り言を発するアイムは、余所から見れば完全に頭が可笑しい方向に吹っ飛んだ奴として見られるが、ここは大きな屋敷の大きな庭で、他人に見られる心配は無い。 他二人はまだ眠っている。それくらいの早朝なのだ。こんなテンションだとしても、恥ずかしい事にはならない筈だ。 「ああ、幸せだなあ。こんな日々も悪く無いかもなあ」 そんな言葉が口から出るが、そう言った日々を捨てたのが今のアイムだ。悪く無いと思うものの、それ以上に旅への魅力を感じてしまったからこそここに居る。 放って置いたままの畑はどうなっているだろうか。誰かが手入れをしてくれているのか。それとも荒れ果てたままか。そんな心配をする権利など、アイムはとっくに無くなっているが、それでも考えてしまう日々であった。 「これも仕事なんだ。なら仕事を楽しむ権利くらいあっても良いよね」 なんだか独り言が良く進む。目に見える地霊に話し掛けているのか、それとも本当に独り言が癖になってしまったのか。 本当にこんな姿を見られたのなら、頭の調子を本気で心配される事だろう。そんな事を考えていた時だ。突然、アイムとは違う人影が、庭に入り込んできた。 「えっ、あ、あれ、なんですかいったい」 今までの姿を見られていないか、いったい誰が、何の目的で。思考が頭の中で乱舞する。突然の来訪者に戸惑ったアイムは、なんとかそんな言葉を発する。 「ああ、いや、済まない。人が居るとは思っていなかったんだが。それでも見えてしまったんでね。その挨拶をと思って」 現れた人物は、アイムの知らない人物であった。若いツリストは皆そうなのか、高身長な青年で、穏やかそうな表情を浮かべている。しかし雰囲気が何故か初めて会った気がしない物であり、どうしてだろうと考えるアイム。 「あの、どちら様でしょうか」 結局、本人に聞くしか無いと考えたアイム。その言葉を待っていた様に、青年は答える。 「自己紹介をまずするべきだったね。僕はレェン。多分、君の仕事仲間の兄だと思うんだけど、君の仕事仲間であるツリストは、リュンと言う名前で合っているよね」 レェン。本人には会った事が無かったが、この数日で覚えてしまった名前だ。何かにつけて、この国で先を行っている商人。リュンの兄でもある。彼が着る服には、リュンが着る服と同じ動物の刺繍が織り込まれていた。 「え、あなたが? なんでここに、と言うか、どうして僕の事を……」 情報の周りが早い。アイムがリュンの仕事仲間などと、誰が話したのだろう。この国にそんな知り合いは居ないはずだ。 「組合に僕の事を聞いたんだろ? 組合側は、そういった事があった場合、本人に伝えてくれるシステムがあってね。その時に聞いたんだよ。リュンの名義で、僕の情報を聞きに来たランドファーマーとエルフが居るってね」 爽やかな微笑みを浮かべて話すレェン。よくもまあ、自分の情報を聞き出そうとした相手にその表情で話し掛けられる物だ。リュンと兄弟であると言うのも頷ける。 「それでリュンさんが次に向かう場所を予想して、さらにそこで聞き込みをしたってところですかね」 ラッツあたりが、ここで仕事をしていると漏らしたのかもしれない。弟の居場所を聞きたいと言えば、兄相手ならばその事を誰だって話す。 「その通り。やっぱり兄弟だからね、弟がどんな仕事をしているか気になって」 頭を掻いて恥ずかしそうに話す。リュンが自分の兄に対して複雑な感情を抱いている事はなんとなく理解して居た分、レェンのこの返し方には戸惑った。 レェンの反応は間違い無く、弟を心配する兄のそれであったから。 「本人に会えば良いじゃないですか。今、屋敷で寝てますよ。呼んできましょうか?」 「ああ、いや、良いんだよ。どんな状況か見るだけのつもりだったから。こんな早朝に来たのも、本人に会うのはちょっと遠慮したかったからでね」 やはり、感情の奥には複雑な物がある様子であった。いったいこの兄弟の間にあるしこりの様な物はなんであろう。 「なんでですか? そんなに仲が悪そうには見えないんですけど」 少なくとも、このレェンと言う者は弟に対して悪い感情は抱いてはいない。 「そうだね、仲は悪く無いよ。でも、やっぱり会うのは止そう。しっかりと正面切って話すのは、あいつが一人前になってからって決めたばかりなんだよ」 別に相手が一人前だろうと半人前だろうと、家族が会う事に理由なんていらないと思うのだが。 「うーん。本人がそう言うんなら仕方ない事でもあるのかなあ。ああ、一応聞いておきたいんですけど、本当にリュンさんのお兄さんなんですよね」 これで実は違う人物でしたなんて事になれば、恥ずかしい状況である。 「間違い無いよ。リュンの兄、レェン。父のウォルドは知っているかい?」 「ええ、この国に来た時に会いました。確かに家族ですね」 彼がリュンの兄である事に間違い有るまい。 「良ければ、君の名前も教えて貰えれば嬉しいんだけど。ランドファーマーである事は知っているんだけど、名前は聞いて無かったんだよ」 そうだったのか。そうであるならば、こちらも自身を紹介するべきだった。 「アイムです。ランドファーマーのアイム。リュンさんにスカウトで良いのかな、まあ雇われてこんな仕事をしています」 アイムは目を今まで手入れをしていた庭に向ける。これで理解してくれれば一番手っ取り早いのだが。 「変わった仕事だって言うのは理解できたよ。あいつもまあ、面白そうな商売を始めた物だ」 レェンは口を隠すが、きっとニコニコ笑っているのだろう。 「一応言っておきますが、レェンさんは僕らのライバルなんですからね。今回の仕事は、絶対に成功させるつもりですから、覚悟しておいて下さい」 「あはは、まあ商人なんてのはみんなライバルだよ。こっちだって受けて立つつもりさ。それより、アイツが元気そうにやってるみたいで良かった。直接は見れなかったけど、陽気な君が相棒なんだ、きっとそうなんだろう」 本当に安心したと言った風に胸を撫で下ろすレェン。そこまで心配されるほど、リュンが子どもだろうか。 「そろそろ帰るよ。ライバルに仕事場を見られると言うのは、ちょっと嫌だろう?」 まあ確かにその通りだ。レェン自身、リュン本人には会うつもりが無かった以上、長居する事は想定していなのだと思う。 「はあ、なんて言えば良いのか、そうだ、負けませんからね」 突然来て、突然去って人物に対して、思い付いた言葉がそれだった。 「ああ、こっちも簡単に勝たせるつもりなんてさらさら無いよ。それじゃあ」 そう言葉を残し、庭を去って行くレェン。なんだか去り際まで爽やかな人物であった。 「うーん。あれ、陽気な相棒? もしかして、独り言を聞かれてた?」 後になって、急に恥ずかしくなって来た。リュンの兄、レェン。一筋縄には行かない人物なのは確かある。
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