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作品名:sign. 作者:

第1回   1
時に俺に欠けていたのは「集中力」だった。致命的にそうだった。幼い頃から放浪癖等を持ち、外出の際にはよく母親の手を煩わせていたと聞くが、それは小学生、中学生時分にも変わることなく、むしろエスカレートの様相を見せていた。毎時間四十五分、或いは五十分の授業時間であっても、ただじっと椅子に座っていることが出来ないことも珍しくは無く、度々教師の目を盗んではあっちへふらふら、こっちへふらふら、気がつけば大人達から「問題児」というレッテルを貼られた生徒の一人となっていた。元来人懐っこい性格故に、学校構内で喫煙、時には飲酒等の行為を行う本当の不良生徒達とも授業中の屋上や体育館裏で仲良くなってしまっていたことも、俺がそういった行為に一切加担はしなかったとしても、「問題児」視を避けられなかった一因ではあったのだろう。ともかく、俺には俺を繋ぎとめる「画鋲」を持ち合わせていなかった。故にそこに留められ、それを中心に世界を回されたことだってなかった。
しかし俺は或る時、それを手に入れた。手に入れてしまった。

   *

端的に言えば、それは一目惚れであった。その相手といえばここで、この職員室の出入り口という公衆の面前で俺に押し倒されてしまったこの人である。俺が職員室から出る同時にその人は職員室へ入ろうとし、加え俺が些か勢い良く出ようとしたため目の前に現れたその人に驚いてその場で躓いてしまったため、この人を巻き込んで前へ倒れこんでしまった。本当に申し訳ない。ここで常識的な行為を執るならば、巻き込んで共に倒れてしまったその人を気遣い、謝罪の言葉を直ぐにかけるべきなのだが、俺はその時、思考から身体から、全てが硬直してしまっていた。
ここで相手が女子だったならば、悲鳴が聞こえるか、罵声と共に平手が飛んでくるか、露骨に嫌な顔をされるか、はたまた泣かれてしまうかのどれかなのだろうが、見る限りその人は俺と同じ紺のブレザーにネクタイ、それとチェック柄のズボンを履いていたのでそこだけは幸いというべきか。いや、ある意味惜しいのか。だが俺はその時、性別から想定される結果の差異などを考え、そこからある種の感慨を得ることなど一切なかった。ただ、見惚れていたのだ。悲鳴も罵声も何の声も上げず、ただその瞳に疑問だけを宿して俺を見上げる、美しいその人に。


そもそも何故俺がその時その場所に居たのか、その理由は俺の運命の歯車が回り始めた、最も根源の出来事と深く関連する。
「紺染、お前留年だからな。」
四月の始業式前日のことだった。担任からの電話で呼び出され、直に出向いた高校職員室にて、俺の一学年時の担任であったその教師は、対面して自身の隣の席を勧め着席させるなり、何の前触れも無く衝撃的通告を俺に与えた。投げつけたと言っても良い。それはもう遠慮なく。
 理由は単純明快、出席日数の不足と学力不振である。中学時代の最後のニ、三ヶ月間、受験というものにようやっと恐怖を覚えた俺は、血を吐く思いをして勉強と言うものに人生初めて本気で取り組んでみた。そうすると遂に学区内でそれなりに上位の評価を得ている柊院学園高等部の合格通知を手にしてしまった。俺の中学三年間の成績を鑑みるとほとんど奇跡のような偉業である。その偉業を成し遂げたことにより今まで俺自身を制御していた閂が弾け、まるでジェット風船から空気が抜けていくような勢いで、俺の中から学力や知識やら何やら、学生にとっては持ち続けているべき諸々は彼方へ飛び去ってしまった。そしてここぞとばかり、俺は先に述べたような放浪癖に任せるまま高校生活最初の一年間を過ごしてしまった。完全に忘れていた、というより意識にすらなかったのだ。高校教育は義務教育の枠から外れた場所にあり、故に、留年制度があるということを。
「それは、決定ですか。」
「暫定だ。全く、馬鹿者。俺は散々言っただろう。」
と、目の前の教師―前述の通り俺の一年時担任であった姫路先生は、怪我人の傷口へ更に言葉のナイフを容赦なく突き刺す。年は二十八歳と学園内の教師陣の中では恐らく一番若いが、だからと言って親しみやすくはない。この人と他の生徒が談笑している所など少なくとも俺は見たことも聞いたこともなく、若いが、しかし生徒指導に関しての厳しさは随一では無いだろうか。しかしそれでも生徒からは確実に支持を得ている。その理由の一つは、厳しいながらもその面倒見のよさにあるのだろう。この人は試験で赤点を取った生徒が合格点に行き着くまで、追試験を何度も受けさせ、その度的確な指導を与えるし、ふらふらする俺の首根っこを掴んでは、確かに何度も忠告してくれていた。思えばそこまで熱心叱ってくれた先生は初めてだったかもしれない。
嫌か、と先生は問う。嫌だ、と応える。
「何故」
何故、と。何故留年がいけないのか。何故嫌なのか。そう問うことで、先生は俺に考えさせる。俺と言えば、ここぞとばかりに足りない脳で学生らしく最もらしい、正当性のある回答を考えていたが、思い浮かぶのは幼稚な理由ばかりだった。クラス内の気心知れた奴らと離れることが嫌だとか、両親に学費を一年分多く負担して貰わざるを得なくなるだとか、そんな利己的なことばかり。何と答えることが正解なのか見当つかぬまま、仕方がないので思いついたままを先生へ打ち明ける。
「なら、それらを分かっていながら、それでも教室に入れなかった理由とは」
それも俺は正直に答えた、十六年治り得ない性癖なのだ、と。
 暫く沈黙が続き、俺がすっかり恐縮してしまったところで、先生は一つ溜め息をはいて、口を開いた。
 「ただ、暫定だからな。手が無いことは、無い。」
 「え、」
 「成績ってのは、曖昧なものだな。実体が在るようで無くて、本当は在るからこそ如何とでも出来ちまう。内申点、って分かるか。」
 「あれですよね、真面目にしていたら貰える点。」
 「まあ、そんなもんだ。それが例えば人より少し多ければ、その分を学力の成績へ移して加算することが出来る。が、今のお前の場合なら、出席日数すらそもそも無いから、その手も使えない。」
 「じゃあ、意味ないじゃないですか。」
 「馬鹿者。逆に考えろ、それを取りに行けばいいんだよ。」
 「どうやって。」
 すると先生は、先程よりも俺を近い位置で、少しだけ周囲を窺う素振りを見せた後、声のトーンを心持ち落として話し始めた。内緒話らしい。
 「“ここ”にはな、そこの属するだけで、他よりも多く内申点を得られる機関が、存在するんだ。」
 絶対、他人に言うなよ。と、先生は何度も俺に釘を刺してから、その機関の名前を口にした。生徒会だ、と。
 「生徒会。」
 「と言っても、生徒会本元は選挙制と任命制。お前の為に席が空いているのは、生徒会内の執行部という部署だ。」
 曰く、先生は生徒会の顧問教員をしており、今現在、定員六名のはずの生徒会執行部には、様々な理由で四名しか在籍しておらず、それ故に適任の生徒を探していたという。さて俺は、適任なのか。
 「その為の、餌だ。」
 先生は何食わぬ顔で、散々なる点数の並ぶ俺の成績表と思しき紙をひらひらと揺らした。不覚にも言質をとられていたのかと頭を抱える。
 「怖いところじゃ、ないですよね。」
 「役割としては、生徒会の活動の補助、それに伴う雑務等々。生徒会の下に位置する、まあ実行部隊というやつか。表向きは、な。」
 「裏向きは。」
 「行けば分かるよ。」
 途端に話を逸らされて拍子抜けしていると、先生は徐に内線の受話器を手に取り、その先の誰かと話し始めた。
 「姫路だ。鈴鹿か。役員の件だが、一人見つかった。」
 捕まえた、では。
 「ああ、そっちには誰が居る。…ならお前、今からこっちに来てくれ。…それに関しては、そっちに任せる。俺が言えることじゃないだろう馬鹿者。頼んだからな。」
 どうやらこの様子では、今から執行部の方が直々に俺を迎えに来て下さるらしい。恐縮な。
 「いいんだよ、どうせあいつら暇なんだ。」
 「いや、でも悪いですよ。あ、俺、出口で待っています。」
 言っても春休みの学内、生徒など殆ど居ないのだから、きっと分かるだろう。
 「そうか、じゃあ。まあ色々とあるが、頑張れ。」
 「色々とあるんですか。」
 「教師の口からはこれ以上言えん。」
 「何すかそれ。」
 「推し量れ。…後一つ、いいか。」
 「はい。」
 立ち上がって椅子を直して居た俺を見上げて、姫路先生は口を開いた。
 「その髪は、相変わらずか。」
 視線は真直ぐ、俺の短髪、色は橙。俺は誇らしげに笑う。
 「これ、地毛なんです。」


(続く)


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