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右手首を捻り、響かせる音は彼への目覚まし時計。 左ブレーキを離してそのまま僕らは今日も動き出す。 彼と共に走り嬉しいことの一つ、愛すべき冬の香りを一足先に感じられること。嬉しいことの一つ、エンジン音の中で孤独で居られること。嬉しいことの一つ、朝焼けの紫、夕焼けの茜、夏雲の重層、冬雲の深遠、夜空の星祭り、それらを眺めて感受を豊かに留められること。 彼の出番が終わり、キーをOFFへ回す。微かに聞こえるマフラーからの焦げ付いた音は、物足りなさか疲労の溜め息か。僕は推し量るだけではあるが、それでも労いの言葉を掛けて、僕らは暫し別れの時。
駅の喧騒を抜け出して、彼を迎えに人少ない路地を進む夜の初め。 キーをONへ回して右手首を捻る。夜道を進みながら、今日の出来事、苛立ちの愚痴、取るに足らぬ夢想、時折り彼の最近の調子を尋ねつつ、僕らは帰路を行く。 晴れの日は風を求めて、雨の日はくれぐれも慎重に。 いつまで共に居られるだろうか、いつまで共に居てくれるだろうか、僕は一抹の不安を押し止めて、彼のメーター部分を撫でた。
(僕のヴィーノ)
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先に手を伸ばしたのは、一体どちらだったろう。 しかし、どちらにしたって俺はそれを信じちゃいなかったし、信じてだって貰えないことも承知していた。愛なんか幻想だ。結局は幻想だ。一過性のそれに固執した結果が右にも左にも動けなくなった拘束状態の俺らだ。そうとしか、今は信じられない。 愛なんか、知らないよ。
「だけどお前は結局、それを信じたがっているね」 ああそうだ悪いかよ! 信じられない幻想だと喚いてみせたが、それにしては俺は可能性を捨てられなかった。捨てられない理由を考えたとき、それは万が一の期待であると気付き絶望する。何かに対する体裁だったなら、まだ救いようがあったのに。 愛なんか、
記憶を確かめた。 確証を捜した。 決定打に膝を折られたかった。 詰まるところ只の臆病だ。俺は知らない、愛なんて知らない、俺のものじゃない俺へ向かう感情なんて知らない、知らないよ、知らないものは恐ろしい。
愛から逃げ続けた俺は今、袋小路にうずくまる。
(不可知論)
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それは極めて静かな朝だった。 雪は静かに多くを覆う。音のない、密やかな侵略。 ふと視線をあげれば、気のつかぬ内に白い世界。 ガラス一枚で隔たれた、遠い世界のこと。
葬列は進む。 私は直にその場に居ないのに、その状況を知っているという、おかしな感覚。 誰かが死んだことを知っている。 その場に居ない、遠くの誰かが死んだことを、知っている感覚。 白の葬式。雪は多くを隠す。
(遠く)
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月のことを考えて汗を流す部屋の中では、偽物の小さな光が世界の全てである。 夜の中。橙の中。もう寝ようよ、と、脳が呼びかける中。
(黒い袋の小さな穴)
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この世で一番の自由な行動を取る。自由とは悪の言葉。決して誰にもせよ強要されない、むしろ強要された時点で名前を変える、その行動。自由な行動。その実行を空想する。 僕は毎日、その事を考えていた。それは時に遠い世界の他人事で、時に自身の内の問題であった。その行動には沢山の方法が合った。水、火、食、縄、アスファルト、刃物、孤独、何を使ってもそれは実行出来た。そして何を使っても、もたらす結果は同じだった。
"自殺こそ、個人にとって可能な唯一の完全に自由な行為であって、他のあらゆる行為は、結局、社会への所属ということを含んでおります。"
社会、あるいは集団からの脱出を望んでいた。出会った言葉は天啓。 自由の行為は秩序に対する悪である、しかし、僕は悪を恐れている訳じゃない。僕が恐れているのは埋没だ。誰も彼も自分が見えなくなって、認識されなくなって悲しいから、底に海ばかりが生まれてるんだ。 その海に今、飛び込むよ。其れくらいの勇気はあるから。
(スーサイド)
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風吹きすさぶ夜。 轟音の中に全ては流れて行った。 ゴミも花も露も涙も、悲しみも寂しさも夢も現実もこの街も、記憶も思い出も星も光も、全部何処かへ行ってしまった。 圧倒的に世界に一人。 それは幻だから、ただ単純に嬉しかった。
前向きな別れも後ろ向きな執着も、肯定も否定も許容も拒絶も、理解も納得も、逃避でも祝福でも、何でも出来ると今なら思えた。そういった我慢を覚えて積み重ねて、ようやく大人になったんだから。だけど時々これら全ても風が吹き飛ばして、圧倒的に世界で二人になれば良いと、空想の末一人で笑った。
轟音の中に全ては流れて、その中で君の声が聞こえればいい。
(東には楽園)
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