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作品名:ドッペルパスはかく語りき 作者:175の佃煮

第9回   9
 私はルミソヤさんと共に、相変わらず薄暗い彼の部屋にいた。机の中央にある松ヤニの蝋燭が仄かに私達の作業範囲を照らしている。私はいつものように日本語の漫画をアフウシ村の言語に訳し、粗い紙に書き写している。ルミソヤさんは珍しく活字の本に見入っていた。背表紙のタイトルから判断すると啓蒙書か哲学書のようだ。

「珍しいですね、ルミソヤさんが漫画や雑誌以外に興味を持つなんて」
「いろいろと考えることがあってね」

 私とルミソヤさんが交わしているのはアフウシの言葉である。この半年で、私は日本語に近いレベルの会話ができるようになった。自分で自分の語学の才能に驚いている。しかし英語は五年も六年も勉強していながら、全然覚えられなかった。覚えないと生活できないという、必要に迫られることは必要なのかもしれない。

「私が日本の言葉を解読したいと思ったきっかけは、この写真だった」

 読んでいた本を机の上に置き、ルミソヤさんが真面目な顔をして話を始めた。私もペンを置いて、指差されたページを覗き込む。それは寺の写真らしく、古い仏像に向かって手を合わせる人達が写っていた。

「言語も文化も違うのに、この国も我々と同じように神に祝福され、崇めている。多少御姿は違うが、信仰の対象は同じなのだろう。神の偉大さを改めて知り嬉しく思った。――それから先は君の知っている通りだよ。私は漫画や雑誌を通して日本語を覚えた」

 ルミソヤさんが語りだしたのは、彼が日本語を学ぼうと思い立った出来事だった。何故今その話を始めるのだろうか。不思議に思いながら話の続きを待つ。

「しかし日本語を読めるようになるにつれ、彼らは我々と違っていることに気付いたんだ。彼らは神との接し方がおかしい。普段はまるでいないものとして生活している。神事を行うにしても、常に人間を中心に据えている。彼らの神はどれだけ寛大なのかと驚いた。そしてさらに勉強を続け、違うのは神ではなく心だと気付かされた」

 知った文化がキリスト圏やイスラム圏だったら、まだギャップが少なかったのかもしれない。寺と神社が同じ敷地にあったり、外国の宗教のお祝い事を行事にしている国は衝撃が大きいかもしれないと思った。

「そんな時にカズマ君が村にやってきた。君は便利で素晴らしい技術、効率的な考え方、様々な新しいことを教えてくれた。君の知識は証明できる範囲だけでも常に正しかった。そんな君が、村の伝承では神が世界を創ったことになっているが、隕石の衝突と生物の進化で説明できると言う。神の地に足を踏み入れると祟りがあると言われていたが、君は無事リオネモを連れ帰ってきてくれた。作物を捧げる風習は無駄だと言い、祭りを月に一度行うよりも常に村の周りに松明を灯しておいた方が効果的だと言った。密かに疑問に思っていたことが、君の話を聞いている内に、より具体的な形へ変わっていった。……私は君の言うことなら、どんなことでも信じることができる。だからこそこの問いに答えて欲しいんだ」

 ルミソヤさんは一度言葉を切った。そして覚悟を決めたように、腹から言葉を搾り出した。

「この世界に……神はいないのか?」
「はい、神はいません」

 リオネモがポリュペモスの山で迷子になってから、ずっと教えたかったことが伝わり嬉しかった。しかし私の心とは対照的に、ルミソヤさんの顔色はみるみる悪くなっていった。

「大丈夫ですか?」
「大丈夫――、いや、大丈夫ではないかもしれない。すまないが一人にさせてくれないか?」

 今まで自分達を縛っていたものが否定されるということは、そんなに衝撃的なものなのだろうか。私には想像できない感情なので分からなかった。



 ルミソヤさんの家を出て、村の中央にある広場に向かった。見張りや親に見守られて、子供達が黄色い声を上げてはしゃいでいる。彼らがしているのは、クトギノオとかいう遊びだ。ルールは確か、最初にノイと呼ばれる役を一人選出する。ノイは他の子を追いかけ、魔法を用いて動きを封じる。そしてノイに体のどこかを触られた子は新しいノイになってしまう。ノイは交代する場合と増えていく場合があるが、今やっているのは交代するタイプのクトギノオのようだ。土手に座り、公園で子供を見守る父親みたいな気分で眺めていた。

「カズマも遊ぼう!」

 急に名前を呼ばれて驚いた。子供達の中にいたリオネモが私を見つけて駆け寄ってきた。

「いいけど、俺は魔法を使えないから、足を引っ張ってつまらないと思うよ」

 この村での子供の遊びは、魔法を上手に使えるようになる目的のものが多く、私にはハードルが高い。

「大人のクセにだっせー!」
「私が教えてあげるよ」
「前教えてもらった、『鬼ごっこ』しようよ」

 他の子供達も集まってきて、好き放題言い始めた。折角のお誘いなので参加しようと思い立ち上がる。周りで見ていた大人達が、「手加減してあげなさい」と言って笑っていた。

 突然地響きが鳴った。音のした方を振り返ると、いつの間にか広場の中央で人が仰向けに倒れていた。顔に見覚えがある。たまに村にやってくる行商人だ。折れた肋骨で肺を痛めたようで、口から血を吐いている。

「空だ、空から降ってきた!」

 偶然その瞬間を見ていたらしい見張りの男が、空を指差して大きな声を上げた。白い雲が浮かんでいる以外に、空には何もない。

「大丈夫ですか? 何があったんです?」

 只ならぬ雰囲気を感じ、子供達に家に戻れと伝えて行商人の側へ駆け寄った。

「あ、『悪魔』だ。悪魔にやられた……」
「悪魔だって?! こんなへんぴなところに――」

 男がその言葉を搾り出すように発すると、広場は騒然となった。私だけ悪魔の示すところが分からずに棒立ちしている。
 痙攣する瞳が私の方に向けられた。

「逃げろ、あいつが探しているのは……」

 男の全身の力が抜け、首がかたりと傾いた。全てを喋ることが出来ずに息絶えてしまった。無念があったろうに、顔は死後弛緩で安らかな表情へと変わっていた。

 行商人の上に影がかかった。見上げた空には、人型のシルエットが浮かんでいた。赤味がかった膜の張られた紅の翼が、大きく空気を捉えてはためいている。

「悪魔だ……」

 同じく上空を見ていた村人がぽつりと呟いた。

「何なんですか、その悪魔っていうのは?」

 誰もが青ざめた顔をしており、尋常ではない様子が伝わってくる。我慢できず、空気を読まないで呟いた男に尋ねた。

「その身の半分に竜の血を引く、世界最強の生物だ。滅ぼした都市の数は計り知れないという」

 私の国では染色体の数が違うやら遺伝子が似ていないやらで、人はチンパンジーやゴリラとですら子孫を作ることができないと言われていた。しかしルミソヤさんの話では、ここでは稀に獣との間に子を有することがあるらしい。獣の血が濃いほど魔法を扱う力も増すと言われ、何十世代も前に獣とつがった祖先を持つと噂される村人は、強力な魔法を使い見張りに抜擢されていた。半分ということは、最も血の濃い一世代目。しかも竜といえば、日本の伝承同様に強大な力を持つ最強の獣だ。多くの都市を滅ぼしたという逸話もあながち嘘とは思えない。
 再び翼をはためかせ、とうとう悪魔が広場に降り立った。ふわりと揺れる、腰まで伸びた長い赤毛の髪。うねる赤い鱗に覆われた尾。痩せ身で、背は私より少し低い。めくれたマントの隙間から、赤い鱗皮のチューブトップとスカートが覗く。顔がゆっくりと上がる。すっとした鼻筋をもつ顔立ち、澄んだ金色の瞳をしている。性別は女。歳は二十歳の前だろうか。
 女は周りを見渡して何かを探していたようだったが、私と視線を交わした途端に口端を上げて笑った。鋭い犬歯が露になる。

「ハッ、アハハハハ……。やっと、やっと――見つけたッ!」

 踏み出す一歩一歩を味わうように歩いてくる。その全身で表現された喜びには狂気が伴われていた。思わず私は彼女が進んだ分だけ後ろに下がっていた。

「止まれ! 手の平を地面につけて、うつ伏せになれ!」

 見張りの村人達が女を囲み、両手の平を向けて威嚇する。

「邪魔するな。その男を渡してくれれば、他に手を出すつもりはない」

 女は笑みを止めて冷淡に言い放った後、鋭い金色の視線で一瞥した。屈強な見張りの人達も腰が引けていた。
 眼前の女はどうも初対面の気がしなかった。足の運び方、首の傾け方、何気ない仕草が脳裏に浮かんでいる像と被っている。にわかには信じがたいが、ただの偶然とは思えない。そして確信へ導くのは、綺麗に切断された赤い尾の先っぽだ。

「そうはいかない、カズマ君はかつて村の為に体を張ってくれた。今度は私達の番だ。彼に手は出させない!」

 見張りの男達は「そうだそうだ」と口々に叫び、手からバーナーのように火を勢いよく噴き出した。四方から浴びせられ、女の全身がオレンジ色の炎に包まれる。

「――何が悪魔だ、大したことなかったな」

 見張りの一人が魔法を中断して言った。他の者達も火炎放射を止めて腕を下ろす。
 何故人間の姿をしているのか、何故ここにいるのかは分からない。しかしあの女がオフィオモルフォスだとしたら、この程度の炎でどうこうできるはずがない。完全に気を抜いている村人達に向けて叫ぶ。

「駄目だ、みんな逃げてくれ!」

 炎の中に、指を立て腕を伸ばす人の影が見えた。女の周囲に風が渦巻く。纏わりついていた炎が火の粉になって掻き消えた。

「温い、温い温いッ! あたしを焼きたいなら太陽でも持ってこい――!」

 女が真横に向けて人差し指を突き立てた。皆が不思議に思いながら指の先を見つめる。指差された先には、ポリュペモスの住む山が見えた。
 指の先からほとばしる光が放たれたと思った瞬間、激しい空圧が押し寄せた。肌が痛みを訴えるほどの熱気を帯びており、思わず顔の前に手をかざす。耳をつんざく轟音。地震を疑う大きさの地響き。
 静寂が戻る。ひどい耳鳴りが続いている。恐る恐る顔を擦り、怪我がないことを確認した。村人達も心ここにあらずといった様子だが無事のようだ。先程起きた天変地異が魔法によるものだと判断できるまでにはだいぶ時間がかかった。
 村人達の中から恐怖の声が上がった。皆の視線の先を追う。女に指差されていた山の上部、三分の一が消滅していた。


「もう一度言っておくよ。その男を渡せ。さもなければ、今度は村ごと燃やし尽くす」

 女は勝ち誇った顔をしてそう言って、人差し指を立てた腕を今度は地面に向けた。

「そ、そんなことは――」
「止めるんだ」

 見張りの村人の言葉を遮って現れたのは、ルミソヤさんだった。彼は女と私を交互に見てから言った。

「村を存続させる為には仕方が無い。悪魔の言うとおり、カズマ君を大人しく差し出そう」
「ですが……」

 村人達が戸惑っている。村に来てから、最も私のことをかばってきてくれたのはルミソヤさんだった。その彼が何の行動も起こさずに切り捨てようとしている。私も見捨てられた気がして少なからずショックを受けていた。

「君達にも私にも、この村には守るべき家族がいる。悪魔と戦えば彼らを危険に晒すことになるんだ。しかしカズマ君にはいない。一人の犠牲で多くの人間が助かるのなら、迷う必要はないだろう? だいたい半年程度の付き合いなんだから、自分達の命をかけるなんて馬鹿馬鹿しいとは思わないかい。……なに、この世に神がいないというのなら何もやましいことはない」

 権力を持つ男の言葉に、村人達が頷く。彼らが悪魔に屈せずに私のことをかばってくれたのは嬉しかった。一回村の人間を救おうとしただけで、ここまで尽くしてくれるのはどこかおかしいと思っていたが、どうやら神に見られていることを意識しているという背景があったようだ。ルミソヤさんの神を否定したのは私だ。自分で自分の首を絞めていたことに気がついた。
 ルミソヤさんの言うことは正しい。人は誰しも、自分と自分に関わる世界が可愛い。本心では誰もが彼の言ったことを考えていたはずだ。しかし納得いかない。したいことをするだけなら家畜でもできる。そこには信念が存在しておらず、人間としての尊厳が欠けている。私の信念を対比しようとしたが、頭が痛んで止めた。
 どこかで感じたことのある理不尽さだと思っていたが、ようやく気付いた。菅原樹の魔術、『道徳からの開放』だ。私は神を否定することで、自分を律し押し殺すルミソヤさんをも否定していたのか。しかし神がいたことによって危険に晒される人間がいることも確かだ。
 非難がましい視線を向ける村人達に背を向けて走る。私がしたことは間違っていたのだろうか。何が良いことで、何が悪いことなのか分からない。



 村の前に広がる草原の真ん中で足を止めた。空を飛んで追ってきた竜の女が、翼をたたんで地面に降り立つ。

「ふん。みっともなく逃げ回ると思って追ってきたのに、期待はずれだったな」
「お前が馬鹿みたいに威力の大きな魔法を使うから、余計な被害が及ばないように場所を変えただけだ」
「自分を売った村に配慮なんかする必要があるのか? ……まぁお前には、ちょっとだけ同情してあげるよ」

 同情というのは口だけで、悪魔はひょうきんに眉を動かして見せた。

「なんであたしが、こんなにもお前に執着しているのか理由は分かってるか?」
「お前はあの時、日本の製鉄所で戦ったドラゴンなんだな?」

 自分を殺した者への敵討ち。どこかで見た仕草。綺麗に切り落とされた尻尾。すべてを合わせて考えて、思い当たったのはそれだった。

「そう。この自慢の尻尾を切り落としてくれた落とし前はつけさせてもらうぞ!」

 女は言い終えると、左右の翼を勢いよく開いた。威嚇だろうか。体が大きく見えて足がすくんだ。

 戦いは避けられそうにない。かといって真面目に戦ったところで、あの山を貫いた魔法を使われたら手も足も出すことができない。卑怯かもしれないが先手必勝に賭けることにした。

「我は汝に啓示を与えるもの!」

 カードを素早く取り出して表に返し、描かれた魔法陣を目に焼き付ける。空いている手の指先に、光の縁を持った鏡が現れた。女に向かって腕を振る。鏡が急激に加速して宙を滑る。悪魔は行動する素振りを見せていない。
 女に着弾する直前、鏡が砕けて消滅した。まだ鏡の認識は続けていたので、自然に消えるはずはない。奇跡の粒子の共振が阻害されているのだろうか?

「楽には逝かせない……。手足を千切られ苦しんで、全身の火傷で苦しんでっ、息をできずに苦しんでっ、最後の最後に自分の無力さを味わいながら死になッ!!」

 悪魔が片手でばきばきと指を鳴らしながら歩いてくる。口端を上げて、とびきりの笑顔を浮かべていた。今度はかばってくれる人はいない。
 どうすれば攻撃を当てることができるだろう。――死角から攻撃する。速攻で阻害する時間を与えない。阻害できないほどの枚数の鏡で攻撃する。思い浮かんだ案を全て採用した。
 カードを再び表に向けた。正面に、光の縁をもった鏡が浮かぶ。消滅しないように認識を続けたまま、新たに意識を集中させる。五面、十面。様々な方向に向けて鏡を生み出す。

「火から土を、粗雑なるものから精妙なるものを分離せよ!」

 詠唱を終えたのと同時に、鏡がその場で回転して向きを揃えた。一斉に女目がけて飛びかかる。想定した通りの完璧な軌道。
 しかし敵のスペックははるかに想定を超えていた。手足を動かす予備動作すら認知することができない。不敵な笑みを浮かべた女の姿は掻き消え、すべての鏡が空を切った。

 肺の空気が全て吐き出された。視線を落とすと、先端の切れた尾が腹部を薙いで食い込んでいた。重力から開放されたみたいに跳ね飛ばされ、すぐに背中に走った激痛に顔をしかめ、うつ伏せに腐葉土の中に倒れ込んだ。村の近くの草原にいたはずだが、いつの間にか森の中にいた。木の幹にしこたま背中をぶつけたらしく、苦痛で呼吸が出来なかった。

「まだあたしに勝てるつもりでいるようだから、いいことを教えてあげるよ。どういう訳かお前と戦ったあの場所では、あたしは人の姿を保てなくて、魔法も使えなかった。つまりあの時お前らが苦戦していたのは、全力の1%も発揮できていなかったあたしってことだ」

 女が指を立ててこちらに向けてきた。村で目撃した、山を抉るほどの炎が脳裏をかすめる。
 放たれる炎。熱風が押し寄せる。死んでいるかもしれない身だが、死を覚悟した。

 鼻の粘膜が刺激される焦げ臭さが漂う。瞑っていた目を開いた。炭になった木々が蒸気を上げ、地面は焼き焦げ抉れ、周囲は惨状となっている。しかし私の体は無事で、座っている場所も元のままだった。
 私と悪魔との間、目の前にいつの間にか人が立っていた。位置的に私を助けてくれたらしい。フードのついた麻のマントを被っており、背を向けられていることもあって顔は見えない。シルエットは小柄だった。

「しつこいなぁ、またあんた? 今日は私用で来ただけで、村に手は出してないんだけど」
「こちらも今日は私用よ。でも私も彼に用事があるから、結局いつものように邪魔をすることになるのかしら」

 発せられた声は女性のものだった。抑揚の少ない声をしていた。

「あんたもこの男を? どっちにしろあたしの獲物だから渡さないけどな」

 悪魔が真横に右腕を突き出した。半ばまで曲げた指先に五つの火の球が浮かび上がる。放たれた五つの炎が、フードを被った女目がけて弧を描いて飛んでいく。

「あなたが用件を済ますと私の用件を済ませられないし、私が用件を済ませば多分あなたは用件を済ませられない。……勝手に貰っていくしかないようね」

 フードの女もマントの隙間から左腕を出して伸ばした。細くて華奢な腕は綺麗な白い肌をしていた。こちらは指先に五つの水の球が浮かび上がる。放たれた五つの水流が弧を描く。火と水がぶつかり、熱い水滴を四方にばらまいて相殺した。

「さすが四柱の魔法使いの一人なだけあるな。――これならどうだ?」

 悪魔が口角を歪め、大きく足を振り上げてから踏み鳴らした。彼女を中心に、焦げた地面にひびが入り広がっていく。割れた地面から熱気が噴き出した。
 フードの女が宙で指を走らせると、正面に水色の光の線が現れた。円を基調とした模様が描かれていく。

「広やかにみなぎり渡る大気よ、冷気をたっぷりと吹き入れよ。水気を含んだ霧の棚よ、漂い来たって辺りを巡れ。水よ、したたり、ざわめき、雲よ、捲き起れ、――虚妄の炎の戯れは一条の稲妻の光に」

 言い終えた瞬間、周囲の気温が一気に下がった。いつの間にか晴れていた空も雲行きが悪くなり暗くなっている。
 辺りから、しゃくしゃくと音がした。霜だ。地面が凍りついている。フードの女を中心にして地面のひび割れがだんだんと閉じていく。静けさが戻った。
 気候を変える魔法を使い、竜の女とやり合えていることから、かなりの腕の魔法使いであることが分かる。助けてもらったのはありがたいが、私に何の用があるのだろうか。それに気になるのは、光で描かれた魔法陣と詠唱だ。彼女が使ったのは魔術ではないだろうか。


「仇敵に宿敵、最高にテンションが上がるな。久しぶりに全力を出させてもらう! 消えるなら今のうちだぞッ!」
「一人では退かないわ」

 淡々と答え、魔法使いの女が両手でフードを脱いだ。ぱっちりとした眼がすわった、上品で落ち着いた顔立ち。黒髪を後ろでまとめたハーフアップ。声のイメージと無理なく一致する。
 彼女の周囲に水色の光を放つ魔法陣が浮かんだ。魔術をかじっただけの私でも、とてつもない情報量を持った魔術を使おうとしていることが分かる。

「あぁそう。それなら塵も残さず消えろ」

 冷たく言い放ち、竜の女が腰を落とした。腕を地面に付き立てた彼女の姿が歪んでいく。

「……紅蓮桜花(クオツネルガ)!!」

 押し出された空気が、熱気を帯びた風となって吹き寄せる。炭になった木や草が崩れ落ちて散り散りになった。女の周りの大気が光を発している。可視化する熱量、プラズマ。千度を超える融点を持つはずの土が赤熱し溶け始める。地面が沈み込んでいく様は、まるでメルトダウンでも起こしているかのようだ。

「馬鹿力ならぬ馬鹿魔力、か。あればかりは対抗策が無いのよね。――悪魔さん、ごめんなさい。一人では退かないけど、二人で退かせてもらうわ」

 フードの女はさらに時々刻々と模様を変えていく魔法陣を展開し、見たことがない詠唱方式を使い始めた。とっくに私の理解の範疇を超えていた。

「瞬間に向かって私は呼びかける。時間よ止まれ、お前は美しい」

 悪魔に負けを宣言する、あまりに有名な一言。竜の女を囲って、地面から五本の氷の柱が突き上げる。瞬間的に、発せられていた熱気と光が消滅した。凝結した水蒸気がきらきらと輝いている。絶対零度――分子の振動を含むあらゆる運動が停止する。まるで空間の凍結。三十秒間世界が止まった。

「さぁ逃げましょう」

 私に向かってかけられた声は、日本語だった。


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