湿って膨れた腐葉土を踏みしめ、木々の間を進んでいく。こうして森の中に入るのはアフウシの村にやってきた日以来である。以前私が寄りかかって寝ていた木が見えてきた。あの時は腹が減っていたこともあり、長い時間歩いたように感じていたが、直線距離にしてみると大したことはなかった。 獣道を通って山へ足を踏み入れた。葉々の合間から日の暮れてきた空が覗く。既に視界が悪くなりつつある。完全に暗くなる前に捜索を終えて帰りたいと思った。『日が暮れる』というのは日本での生活に例えたのではなく、実際この村からは同じように太陽と月を見ることができる。これによって異星説が否定された訳だが、戸惑いも少なく生活できている理由の一つになっているのかもしれない。
緩い斜面を登っていく。村人は誰も足を踏み入れないと言うが、ところどころ踏み固まって草花が生えていない箇所があり、お陰でだいぶ歩きやすかった。
「リオネモ〜?」
声を張り上げ少女の名前を呼ぶが、風で葉々が擦れている音しか返ってこない。 リオネモは村人が私のことを避けていた中、真っ先に話しかけてきてくれた子供だった。ルミソヤさんによれば、神の言葉の中に余所者は害をもたらす云々というものがあるせいで皆が余所余所しく接するらしい。リオネモは好奇心が人一倍強いので、信心が薄くならざるを得なかったのだろう。 神を信じるのは勝手だと思う。しかし今の状況はどうだ。誰も山の中に入り助けに行くことができなければ、結局神を信じないものは淘汰されていくことになる。ダーウィンもびっくりの進化論。怖い世界だと思った。 異変を感じて足を止めた。化け物のせいで敏感になってしまっていたようだ。風に運ばれた土の匂いに混じった、生々しい鉄臭さが鼻につく。生命の終わりを告げる、血の臭い。頭に浮かぶ最悪の光景を無理やり奥底に沈めようと試みながら走った。
急に足が回らなくなり、大きく前のめりになった。もう一方の足を前に出そうとするが間に合わない。私は地面にできていた大きな窪みにつまづき、頭から倒れこんでいた。 木々の上から届く鳥の鳴き声が、私のことを嘲笑っているかのように聞こえる。恥ずかしく思いながら無言で起き上がった。 立ち上がる際に地面についた手に、ぬめっとした感触が残っていた。手の平を見ると全体がべっとりと赤く染まっていた。痛みは無く、怪我をしたようには見えない。地面に視線を移すと、血溜まりが点々と続いていた。
発生元に向かって歩き出す。一歩。二歩。自身の心臓と呼吸の音がやけにはっきり聞こえた。 低木の手前で血痕は途切れていた。奥を覗き、胸を撫で下ろした。流した主はその陰に横たわっている、頭に角の生えた短毛の哺乳類――鹿のような生物。『ような』と思ったのは、肉食動物のように妙に痩せたシルエットをしているからだ。しかしすぐにそれが勘違いであることに気付いた。腹があるはずの部分が、骨も肉も根こそぎ無くなっている。引き裂かれた腹部から腸管が飛び出し地面を這っている。嗅ぎ付けた羽虫が耳障りな音を立てて飛び回っているが、血がまだ乾いていないことから考えると、死んでからあまり時間が経っていないようだった。 散在している血を改めて眺め回した。血痕は一方に血滴の突起が見られ、勢いよく噴き付けられたように見える。架空の像が鹿の腹を引き千切り、振り回している様子が頭に浮かぶ。続いて地面につけられたたくさんの窪みに視線を移す。逃げ回る鹿を追い回す架空の像。
リオネモの命に関わり、一刻の猶予も許されない。山頂に向かって走る。ポケットに魔術のカードが入っていることを確かめた。使わなければならない状況を覚悟する。 大木の横を通り過ぎたが、違和感を感じて足を止めた。即座に振り返る。巨大な幹だと思っていたが、高くなるほど径が太くなっているそれは違う。顔を上げて空を仰いだ。 森から頭が突き抜けており、顔は見えない。こんな現実離れしたものを想像した記憶がある。もはや、生物の枠を超越しているだなんて理由で否定することはできなかった。巨人――、何とこの言葉がしっくりくることだろう。 肋骨が浮き出るほどに痩せ身で、手足の長いシルエットは昆虫を思わせる。髪に限らず体毛は生えていない。皮膚は生気を感じさせない土のような色をしており、表面がひび割れるほどに乾燥している。衣類は身につけておらず、性器が丸出しになっていた。 地響きを立てて太い脚が折り曲がる。巨人がこちらに気付いたようで身を屈めている。顔の中央に一つだけしかない巨大な目玉がぎょろりとこちらに向いた。
ルミソヤさんの言っていた、天の柱『ポリュペモス』とはこいつのことだろう。空に向かって伸ばされた腕は、まるで天を支える大黒柱。天の柱とはよく言ったものだ。 腕が振り下ろされる。私の身長の倍以上の身長のさらに倍という、とんでもない高さからの位置エネルギーを変換して速度を増す。目一杯に広げられた手の平が迫ってくる。 懸命に地面を蹴り、体を前に放った。今まで私がいた場所の地面を、長い指がショベルカーみたいに根こそぎすくう。跳ね飛ばされた土が木々に当たって葉が舞い散る。 全力で走って、巨人の股の下を潜り抜けた。足を止めて後ろを振り返る。ポケットからカードを取り出し、即座に表返す。
「我は汝に啓示を与えるものッ!」
巨人の腕に食い込むようにして光の鏡が浮かぶ。光が四散して消滅するのと同時に、腕から血が飛び散った。
「あんたに用事はないんだ、……アナヒズオィナッナイ、レアケ!」
言葉が通じるか分からないが、「この場所から去れ」と叫ぶ。巨人は食い入るように自分の血を見つめていた。 巨大な目玉がぐるんと回転する。私の存在を思い出したみたいに、巨人がこちらを振り向いた。力を込めた腕は傷口が塞がり血が止まっていた。いくら鋼すらも断ち切れる鏡を生み出せても、いかんせんスケールが違いすぎる。
長い足を振り上げ、踏み下ろしてきた。大きな足跡が刻まれるのを背に、再び股の下を通って駆け抜ける。振り返って魔術を使おうとしたが、横から力を受けてバランスを崩した。木々と地面が線を描いて流れる。急にかかった遠心力で頭がぐわんぐわんした。 足をばたばたさせて、地面についていないことが判明した。腕が胴体にくっついたまま動かない。見れば、私の体に岩のような指がからみついていた。巨人の腕は、自身の周囲全体をカバーできるほどに長い。背後に回ったことで安心してしまっていた。 再び遠心力を受けて頭が揺れる。やっと止まったと思ったが、巨人の顔が目の前にあった。 ねちゃりと音を立てて、薄汚い歯が並んだ口が開く。生暖かく酸っぱい臭いをした息が漂ってきた。脳裏に浮かぶ半月形に欠けていた鹿の腹が、眼前の歯型と一致した。
「冗談じゃねぇ――」
ポリュペモスは、手にしたものを何でも口に入れる赤ん坊みたいに、私に頭からかぶり付こうとしている。姿形が人に似ているからなんて同族意識を持って加減するのは危険だ。日本で遭遇した化け物達と同じで、相手は私のことを敵もしくは餌くらいにしか考えていないのだから。 必死に体をねじり、カードを持った手を指の合間から外に出した。呼吸を整え、一点に意識を集中させる。あの村での生活で、少しは魔術の腕も上げたつもりだ。 カードを表に向けた。正面に光の縁をもった鏡が浮かぶ。消滅しないように認識を続けたまま、新たに意識を集中させる。五面、十面。様々な方向に向けて鏡を生み出す。
「火から土を、粗雑なるものから精妙なるものを分離せよ!」
カードを持った腕を巨人に向けて伸ばした。それと同時に鏡がその場で回転して向きを揃えた。一斉に巨人目がけて飛びかかる。 これだけたくさんの鏡を用いても、巨人のスケールからすれば小さな怪我しか与えられないだろう。小さくも致命傷を与えるなら、狙う場所は一つしかない目玉だ。 とっさに顔の前にかざされた手の隙間を縫い、鏡の群れが急襲する。眼球の外側を覆う強膜が引き裂かれ、無色の液体が飛び散った。 私を拘束していた指の力が弱まった。開かれた手から滑り落ちて地面の上に着地する。巨人はふらふらしながら、目を押さえて呻いていた。
無理をして仕留める必要はない。背中を向けて、一目散に走って逃げ出した。 目が見えないはずのポリュペモスがこちらを振り向いた。腐葉土を踏みしめて鳴る、しゃくしゃくという足音のせいだと気付いたが、今更遅い。構わず全力で地面を蹴って走る。 巨人が追いかけてくる。手足の振りは遅いが、馬鹿みたいに長いストロークであっという間に距離を詰めてくる。 咄嗟の思いつきで、スラロームみたいに木を左右に避けながら走り始めた。巨人は木々にぶつかり、思うように進めていない。徐々に間隔が開き、なんとか無事に逃げ切ることができた。
とうとう日が沈み、辺りはぼんやりとしか見えなくなってしまった。これではまともに捜索することができない。リオネモも入れ違いで村に帰っているかもしれないし、一度村に戻ろうと身を翻した。 村の方へ向かって歩いていると、高周波音が聞こえることに気付いた。ポリュペモスが私をおびき寄せようとしている可能性もある。慎重に音が発せられている場所に向かう。近づくにつれて、それが人の泣き声だと判断できるようになった。 森が開けた先にあった小さな丘の上に、古くて大きな木が一本だけ生えていた。幹の地面近くが左右二つに分かれて、大きなうろができている。中を覗き込み、ほっとして息を吐いた。うろの中では女の子が膝を抱えてうずくまっていた。
「ラデ?」
リオネモがこちらに気付き、私が誰か尋ねてきた。縮めた体を震わせ、異常なまでに脅えている。
「カズマヤド。テラモナチノチホナルメ、チキネアクモイミカ」
自分の名前を教え、村の人が心配していることと、迎えに来た旨を伝える。彼女の表情がいくらか和らいだ。 一人で山に入り木の実を拾って遊んでいたが、例の巨人がこの辺りに居ついてしまい、ここから出られなくなってしまったらしい。ポリュペモスの伝承は聞いていたが、村の行事の準備をしていて遊んでくれなかった大人に反抗してみたくなって山に入ってしまったとのことだ。もう少しで取り返しのつかないことになるところだった。 「目を潰したから巨人はもう現れない、大丈夫だ」と村の言葉で話して手を差し出した。私のことを信じてくれと伝えたかったのだが、伝わっただろうか。少女は少し躊躇ったが、しっかりと手を握ってくれた。小さな手を引き、うろの外へ連れ出す。 辺りはすっかり暗くなってしまっていた。葉々の合間から差し込む月の光がわずかに地面を照らしている。道に迷わないで村まで送り届けられるだろうか。夜が明けてから降りる方が懸命そうだが、衰弱しているリオネモを早く家に送ってあげたいという思いもある。 一人悩みこんでいると、後ろから服の裾を引かれた。リオネモの方へ向き直る。少女は私の顔を凝視していた。いや、目に映っているのは私ではなく、その奥だろうか。暗くて表情はよく読めないが、尋常ではない感じが伝わってくる。私も彼女の見つめる先へ振り向いた。 月明かりで照らされているのは、一帯に生えた高い木々。夜空に浮かんでいるのは、掴めそうなくらい近く見える星々。何もおかしいものは見えない。
「ア、ア、アァ……」
リオネモが声を漏らす。星々の光が一斉に少女に向けられた。
乱立する幹のように突き立つ足々。こちらに向けられた七つの大きな目玉。私達を囲って立つ七体の巨人。――空を支える柱は、一本きりではなかった。 私は少女を後ろに隠し、苦笑いを浮かべることしかできなかった。
巨人は同期させて頭を振り、口端に垂れた涎を撒き散らして興奮している。何も考えずに泣きながら走り出したい気分だが、リオネモが後ろで震えているのを感じて押しとどめた。つい先程彼女を早く家に帰してあげたいと決心したばかりではないか。覚悟を決めた。
「……星煌く天は我が顔、海は我が胴、大地は我が足」
詠唱をしながら必死に打開案を考える。同時に生み出せる鏡の枚数は十枚。詠唱を行えば二十枚。三枚ずつ鏡を飛ばして、全ての巨人の目を同時に抉るのはどうだろう。
「風が充たすは我が耳、輝く光を遠矢に射る太陽は我が目なり」
いや、駄目だ。巨人達は聴覚にも優れているようだ。最初のポリュペモスのように目を潰すだけでは足止めにならないので、一体一体確実に仕留める必要がある。となれば用意するのは、巨人の首でも断ち切れるだけの巨大な鏡。
「――我は汝に啓示を与えるもの」
カードを表に返し、月明かりに照らされた魔法陣を目に焼き付ける。光を放ち、宙に大きな鏡が現れた。カードを持った腕を伸ばして巨人に向ける。鏡が音も無く動き出した。 光の縁が残像を描き、宙を疾走する。しかし到達するすんでのところで、ポリュペモスは俊敏な動きで屈んで避けた。鏡を引き返させようとするが間に合わない。他の巨人達が一斉に襲いかかってくる。 鏡の中から、先端から光を放つ黒い紐が飛び出した。紐が生き物のようにのたうち回り、避けた巨人の背中に触れる。瞬間的に周囲の空気がイオン化し、派手な光を放った。バチバチという、熱せられた空気の炸裂音が響く。火球に包まれた巨人が吹き飛ばされた。 巨人は膝を抱えるように縮こまったまま、ぴくりとも動かなかった。筋肉が収縮したまま凝固しているのだろう。眼球は派手に破裂し、眼窩が大きな窪みを形成している。さらに体表は黒く炭化しており、原形が想像できない悲惨な状態だった。 先ほどまでの威勢はどこに行ったのか、巨人達は足を止め顔を見合わせて困惑している。とはいえ私も困惑していた。あれは、電信柱の上に張り巡らされて日本中に電気を送っている送電線だ。 鏡が発していた光の縁が頂点に集まり四散した。切断された電線が落下しながら暴れ、先端が地面を叩いて、枯れ草に火をつける。巨人達は炎を見ると、一目散に逃げ出していった。 湿った土壌のこともあり、火はすぐに消えた。
「オーイ!」
複数の人の声が聞こえてきた。木々の合間に小さな光が浮かんでいる。だんだんと光が大きくなり、松明を持った村人達が現れた。リオネモの母親とルミソヤさんの姿も確認できる。 炭と化したポリュペモス、続いて地面に転がっている電線に視線を向ける。何故これが現れたのかは分からないが、とりあえず助かったようだ。どっと疲労が押し寄せた。
村に戻った後、私はルミソヤさんの家で治療を受けていた。といっても怪我はかすり傷くらいなので、薬草の絞り汁をつけただけなのだが。リオネモは村中の大人にこってりと絞られてから帰っていった。
「知っての通り、外部の者は村に害を及ぼすという言い伝えがあり、カズマ君には辛い思いをさせてしまっていたと思う。君は村の外の出身だ。しかし危険を顧みず我々の仲間を助けてくれた。もう外部の者だなんて誰も思っていない。これからは村の仲間として歓迎されるだろう」
ルミソヤさんはそう言って、私の背中を押した。
ルミソヤさんの家を出たところで、村の中央にある空き地で火が上がっているのが見えた。ポリュペモスの件もあり、心配になって駆けつける。しかし燃えているのはキャンプファイヤーのように高く組み上げられた木だった。そういえば今日はルタミヒとかいう祭りが計画されていた。村人達が松明を手にし、組み木の周りを踊りながら回っている。 ポリュペモスは火を見た途端に、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。多分野生動物のように火が苦手なのだろう。私が思うに、昔の村人は火で巨人を追い払えることを知っており、村に近づけさせないために、こうして定期的に焚き火を行っていた。しかしいつしか巨人の姿すら見たことのない村人が増えて神格とみなすようになり、本来の目的を忘れて儀式化してしまっていたのかもしれない。
急に手をつかまれ正気に戻った。手を引っ張っているのは、笑顔を浮かべたリオネモの母親だった。ずんずんと組み木の方へ連れて行かれる。火炙り的な儀式にでもかけられるのかと心配になったが、今まで見たことの無い優しい表情をして迎えてくれている村人達を見てほっとした。村人から松明を渡される。
「オタギラウ」
次々に掛けられる感謝の言葉を、心から嬉しいと思った。夜が明けるまで、村人に踊りを教わりながら組み木の周りを回った。
そして半年の月日が流れた。
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