おいと峠 序章 東の城山には薄靄(うすもや)のように新芽が満ちて、西の里山には低くなだらかな稜線が暖かそうに輝いている。もう直ぐ施餓鬼祭りの準備が始まる。毎年四月二十四日に開かれる雲居寺のお祭りだ。暖かい日差しに誘われて、何の用があるのでもなく、その寺が面するバス通りをのんびりと歩いてきた。 緩い坂を上りながら、寺の敷地を見るとも無く眺めているうちに、急に五十年以上も前の記憶が思い出されてきた。まだ満で五歳前後だったと思う。記憶は映像のようで白黒みたいな感じがするのだが馬だけは茶色である。丁度、この辺に立って馬掛けを見ていた。 この通りの下に里山である散在(さんぜい)と呼ばれる森に入る道が東西に走っていた。その道に面して寺への山門が南向きに建っていた。山門を潜って直ぐに急な石段があり、それを登りきれば正面に寺が構えていた。その昔は左に旧い本堂が建っていたが火災で消失したそうである。今では新しい本堂が建っている。私が知るあのころは何もなく、ただ大きな石が散らばっていただけだった。 今、私が立っているこの南北に伸びる舗装道路は当時砂利道で、旧道の上に覆いかぶさるように造られていた。両わきにはその旧道に下る広い道があった。大正以前には旧道しかなく、砂利道は車を使うようになって造られたものだときいた。今は旧道のあった場所も、造成によりその面影を探すことはできない。現在の山門はこの舗装道路に向かって建て替えられている。 あのころ。今は影形も消えたその旧い山門の前で、足の太い頑丈そうな馬が二頭並び、大きな掛け声と共に走り出す。一斉に喊声が湧き、拍手や銅鑼や太鼓の音が鳴り響く。道幅は狭く二頭が並んで走るのがやっと。やや右に弧の字になった平らな道、騎手が夢中で馬の尻を鞭で叩いていた。二百メートルほどで勝敗を決め、その後は斜面を登って勢いを止める。また次の馬が山門の前に並んでいる。 木々が邪魔しない当時、その様子を全て、少し離れたこの場所から見ることが出来た。観客の多くは馬が走る道の上、寺の境内の端から覗き込んでいた。その境内には今と同じように露店が溢れるように並び、人でごった返していた。 娯楽の少なかったあのころ、この地域では施餓鬼祭りの馬掛けが最大の楽しみであった。地域上げての最大行事であったのだ。 今では移り住む人も随分と増えてきたが、その人たちには想像もできない活気だろう。 その移り住んできた人たちに、なぜこの地に住むことにしたのかと聞けば、緑がたくさんできれいだからと言う。本当は通勤圏で土地が安いからであろう。緑がたくさんできれいは不動産屋の売り込み口上である。 借ってのこの地の姿を知る私にはやりきれない思いがある。当時の山や川は本当に美しかった。この下に流れる沢の水面の輝きも、ここから見ることが出来た。畑はきれいに耕され、畦(あぜ)は整えられ、土は肥えて虫たちがたくさん住み着き、その虫を鳥たちが食べに来ていた。沢の両岸の木は切られ、土留めの草は程よく刈り取られていた。山には間引かれて雑木が明るく茂り、所々で椿や樫がその葉から日の光を打ち返していた。雑木の下には日が差し込み、落ち葉の掃き採られた後には背丈の低い下草がこの時期には色とりどりの花を咲かせていた。 そう、ここからもそれを見ることができた。山も沢も明るく歩きやすく、草木の種類は豊富で、強い生気が感じられ、土には力がみなぎっていた。人と虫、鳥、獣で場所と時間を交替することで、たくさんの命と共存していた。人が自然に手を加えながも、自然を敬うことで共存の美しさは保たれていた。互いがよりよく生きることで調和の美が受け継がれていた。人は環境によって生かされていることを知っていたのだ。 しかし今は、人は一方的に共存から手を引き調和を捨ててしまった。そしてこの山の緑をきれいだと言う。共に生きられること、命どうしの共存と調和の大切さを、忘れているからに違いない。 山門から人が出てきてこちらに向かってくる。欽二さんだ。大方祭りの準備のことで呼ばれたのだろう。年はとっても足腰も頭もしっかりしている。 道路わきに置かれた石に腰掛けていると、 「ようー」と声を掛けてきた。 「やー。いい天気だねー」欽二さんは近寄りながら 「なにやってんだよ、こんなところで」とにこやかにいう。 「天気が良いんでぶらぶら歩いてきたら、丁度いい石があったんで腰掛けて山を眺めていたんだ」と答え、 「祭りの準備で呼ばれたのか」と尋ねると 「ああ、まいどのことさぁ」という。 「それにしても、ひでぇ山になっちまったもんだなぁ」と私がいうと。 「あぁひでぇー」と左右に首を振りながら 「このまんまじゃーすまねぇぞ」。と付け足した。 「ああ、確かにそうだ。このごろは猿や猪まで出るようになっちまった。これじゃ丹沢の山奥といっしょだよ」 「それになぁ、こっからじぁ見えねぇけど、がけ崩れも始まってるぞ」 「そうだろうなぁ、この木じゃあ崩れちまうからなぁ」と私は答えた。沢が一面に木と蔓(つる)で覆われて、小さな土砂崩れは見えないのだ。 砂礫層の上に火山灰の赤土が乗っているこの山の地盤では、表土の下は水はけが悪くその下では地盤が脆い。木は根を深く張れず、横に這わせるしかない。木と木の根が絡み合うことで土砂崩れを防いでいた。今は樹勢が衰えて根の張りが足りないのだ。 蔓が木に巻きつき光合成が不足し、日差しは地面に届かず、下草がなくなり、養土が雨で流されて根が張れない。養分が不足した木に力強い生気はない。更に木は下枝を落として上にばかり伸びて風に煽られる。これでは斜面のきついところから崩れていくのは当然なのだ。 「でかい雨台風でも来てみろ、ひでぇことにならぁ。」 「あぁ、でもどうしょうもねぇ」と私はため息混じりに答えた。 左手の山は大手不動産会社が開発しようとして買い取ったが地盤が弱くて高い建物が建たず、そのまま放置している。奥の山は国か県の持ち物だがよほどのことが起きない限り手入れはしない。右手の山はたしかまだ共同林の筈だが、なんら金銭的利益の出ない山の手入れなど、できる訳もない。昔のままの制度では山も農地も集約せず、活用の方法があっても活用できないのだ。 人はこれを見て時代の流れだという。しかしそれは違う。時代はいついかなる時でも変化している。滞ることは決してない。その時代に合わせて変化を受け入れ、仕組みや決まりを変えることを怠っているだけのことなのだ。人々の意識は変化を恐れてもう半世紀以上も止っている。 今はただぼんやり眺めているしかない。人々が時代の流れに逆らうことをやめるまで、待つしかない。 私は話題を変えて 「昔は良かったなぁ」という。 「ああ、ここはきれいだった。やることはきつかったけどなぁ」 「そうだろうな、あの『ひょうでん丸』の上まで畑があったからなぁ」と私は沢の水源、西正面に見える饅頭のような形をした小さな山を指すと 「あぁ、あれは戦後の食糧難の時に一時的に開墾したんだよ」と教えてくれた。 「あ、そうか、そうだよな、あんな急斜面、無理してやることもないしな。食料難にでもならなきゃやる訳きゃねぇな。」 「ああそうさ、山は耕すもんじゃぁねぇ、きれいな水をつくったり、薪を採ったり、柴刈りして畑を肥やすためにあんだからな」という。私はその通りと思いながら頷いた。工業肥料だけではいずれ田畑も山も衰弱してしまう。山の多様性が田畑の専用制を支えていると知るからだ。 「あのひょうでん丸の向こうには焼き場があってよぉ、ここいらの人は疫病で死んだらそこまで背負(おぶ)って行って、焼いたもんだ。一人でやらなきゃなんねぇから大変だったんだ」という。 そのことは父や目上の人からも聞いていたので良く知っていた。疫病で死ぬと病気を広めないために、そのまま土葬できなかったのである。家族の誰かが一人でやらなければならなかった。そして当面の間、家族は家から外に出られず、ほかの誰もがその家に出入りできなかった。 「うわぁ、俺にはとってもできねぇ」と応えると 「今の人になんかに、できるわけきゃねぇーよ」と笑う。 「その焼き場の奥がおいと峠でしょ」と訊くと 「おお、よく知ってんなぁ」と少し驚いた風である。 「親父から聞いてたからね。おいとちゃんが追い剥ぎに殺されたんでしょ」と訊いた。 「そうだよ。俺が産まれるもっと前の話しなんだけどよ、」という。 「ここいらじゃ、追い剥ぎに殺されたなんてよっぽど珍しくて、大騒ぎしたんだろうな」というと。 「いやぁ、そうじゃあねぇ、ただの追い剥ぎじゃなかったんだよなぁ。かえぇそうな話よ」と押し殺したような言い方をした。 「えぇ」と私は驚いた。ただの追い剥ぎではないなどと、想像もしていなかったからだ。昔は犯罪が珍しかったので峠の名前になったのだろうとばかり思い込んでいたのだ。父からは追い剥ぎとしか聞いていなかったので、ただの強姦か物取りのたぐいだと思っていた。そういえば父もその追い剥ぎの内容の話は何故かしてくれなかった。私はその続きが聞きたくて、堪らなくなってきた。 考えてみれば戦争ばかりしていた荒れた時代だ。ただの殺人なら、峠の名前にまではしなかったかもしれない。よほどの内容であったと想像できる。私は真剣になり、 「その話、聞かせてよ」というと 「俺も聞いた話だからなあ、詳しくはわかんねぇんだけども」といいながらも石の上に座り、ひょうでん丸を眺めながら話を始めてくれた。 一章 そのころ
話の様子から、時代は日清、日露戦争を経て第一次世界大戦に突入していくころと思える。いとは十から十二歳くらいで家は寺沢の尻久保川沿い近くと思える。この寺沢は相模川の支流の串川から更にその支流尻久保川最上流に古くからあった集落だ。鎌倉時代の初期には諏訪神社が末期には雲居寺が建てられている。その後諏訪神社は四百年ほど前(江戸幕府の開府の翌年)に城山の直下、根元地区に移された。その城山の向こう側が小倉という。小倉は当時の相模川の津(みなと)である。 いとという娘はここ寺沢集落から下働きのために、青山と呼ばれる地区まで通っていた。青山も古くから開かれていた地で串川のやや上流に位置する。寺沢よりは少し山沿いになる。 寺沢の下(しも)から雲居寺の前を通っていき、散在と呼ばれる尻久保川の水源(大沢)に向かい、尾根に登る。尾根伝いから、途中、三ヶ木(みかげ)に行く道と青山に抜ける道に別れる。その青山に抜ける道を行き串川沿いにあった糸問屋に毎日通っていたものと思える。 直線距離で約二キロ、実際には上り下りも多くその倍近くの道のりであるであろう。それでも当時は歩くしかなかった時代、これくらいの山坂と距離は当たり前、充分に通える距離であった。 家は分家と思われ少しばかりの畑もあったであろう。このころの寺沢には糸より工場があった。尻久保川とそこに注ぐ沢が二箇所あり、そこは水車を回すのには都合がよく、糸より工場を建てるには適していたのだ。 この時代はまだ田舎には電気が充分に普及していないので動力は水車が主流だったのである。親はその糸より工場で働いていたか、その関係で働いていたものと思える。 小学校は四年制から六年制に替わっていく時期であるが男優先、仕事優先の時代だから毎日は通えなかったことであろう。 寺沢の北には金丸という大きな丘があり当時は一面畑であった。その金丸を超えて大きく下れば荒川域(相模川)、現在の津久井湖の湖底にあたり、横浜水道の第三工区から通称『三工区』と呼ばれた。当時は津久井渓谷で最も美しいと言われた景勝地である。そこには川の水を引いたたくさんの田圃が作られていた。少し高台の土地では畑作も広がっていた。 相模川は江戸時代から重要な船での輸送路だったから、ほんの少し下流の小倉には多くの高瀬舟が出入していた。その船着場近くには多くの旅館もあった。 ここより上流は流れがきつくなる。小船しか使えなかった。だから、ここで荷を積み替えることになる。材木は上流から筏で、山間からの積荷は馬や大八車、リヤカーでここに運ばれていた。この地域の交易の要衝だったのだ。 小倉は津(みなと)であった。その昔はこの地を築居(ちくい)と呼んでいた。城山の城が築居城と呼ばれたところからきている。築居が津久井と呼びかえられるようになったのも頷ける。 いとの産まれた時代もまだ小倉は繁盛していた。東京や横浜には丹沢の材木が必要であったし、この地周辺で盛んになった養蚕品を輸出するため、これを横浜に運ぶにも利用された。陸路も有ったが、横浜線(明治四一年)ができるまでは多量の荷物は船で運ぶほうが合理的だ。勿論、鉄道開通後はしだいに衰退していくことになる。 この地での養蚕業は大規模ではなかったが輸送の利便性には恵まれていた。いとの家の周りも養蚕業中心の暮らしであった。大病でもしない限り暮らしが立ち行かなくなるほどのことはなかったであろう。畑がなくても、なにかしら養蚕関係の仕事で食べるだけは稼げたのである。 当時、家で稼げる仕事がない限り、小学校を卒業する歳になれば働きに出るのが当たり前であった。いとも紹介で青山の絹糸問屋に行くことになった。 二章 糸問屋
糸問屋といっても製糸工場も持っていた。もとは製糸工場が本業であったが父親が商売上手なので、次第に自前の糸だけではたらなくなり、近くの工場からも糸を集めて、横浜の貿易商や織物業者に売りさばくようになっていたのだ。このころには自前の製糸は一部で大方は仕入れに替わっていた。人の出入も多く、歩くしかない当時は泊りがけで来る客も多い。近くに旅館があったがそれだけでは間に合わず、家を拡張して遠客が不自由しないで泊れるようにしていた。 しかし何分本業とは勝手の違う仕事である。そこで働く者たちが客の接待が拙いのは必然のなりゆき。口の利き方から料理や風呂、布団の仕度なども旅館のようなわけには行かない。それを見るにつけ主である新造は苛つくのであるが、商売の接待はできても、旅館のような接待を使用人に仕込むことはできない。 ましてや妻は華族を親戚に持つところの娘、家事の経験もなく体も弱かった。このごろでは寝込みがち、その分も自分が気を使わなくてはならない。お客から宿泊料を取るわけにもいかず。それとて接待が悪ければ本業の商売に障る。唯一の頼りは親戚の叔母、かつであった。そのおかつは働き者で気は利くのだがその分口はずばずばと言い、気が強いときていた。新造がこうした方がいい言っても聞いてはもらえない。押し通して腹でも立てられたら忽ち支障がでる。家事が廻らなくなってしまうのである。使用人も女はみなこのおかつが取り仕切って使っていた。新造はわがままに育てられていたから、苛立ちは日増しに積もることとなっていった。 商売の才覚は父親譲りのところがあったが性格はそうはいかなかった。もともとこの地では家柄も良く父親の商売も上手く行っていたから、すっかり甘やかされて育ってしまっている。母親は彼が幼いうちに亡くなっている。その後何年かして後妻が入ってきたが彼は決して慕うことはなかった。後妻はご機嫌とりばかりしていたが心底からの愛情はなかったのだ。 使用人からもお坊ちゃま、お坊ちゃま、と誉めそやされて育てられ、その結果、人の痛みを教わることはなく、自尊心ばかりが強く育ち、人を思いやる心が身につかなかった。そのことが商売でも、心情でも彼を蝕んでいくこととなった。 当時、皇族と華族意外の身分差は認めない制度になっていたがまだまだ家柄や血統が重んじられ、身分の違いを感じさせられた時代でもあった。とりわけ新造はそのように育てられたから、立場の低い人たちを蔑んで見ていた。自分には身分があり、貧乏人どもとは違うと思い込んでいた。しかし傍からみれば大した身分ではない。一般人のなかで商売が成功しているに過ぎない。 甘やかされたために、自分中心にことが進まなければ直ぐに拗ねて困らせるか、癇癪を起こしていた。そのくせ子供のときから利得には眼が利き、そういうことで謙る事には何の抵抗もなかった。親を見ていてそれが当然と思えたのかもしれない。 そんな育ちだから自負心は異常に強い。しかし父親に商売を仕込まれながら、横浜に出るようになると、その自負心が次第に傷つけられだしていくのである。 横浜に出るたびに見聞は広がっていく。こちらに居るときの様に狭い世間ではない。こちらでは何処よりも立派な糸問屋でも、横浜ではそのくらいの糸問屋はごろごろしていた。寧ろ弱小問屋の一つでしかなかった。そのことには納得していたが自分は誰よりも商売をうまくやれると思っていた。それが年を重ねていくと、何処にも吐き出せない悔しさが込み上げてくるようになる。 二 問屋仲間
父親と横浜に出るようになって、売込問屋(貿易商社)に折衝に行った折りに、やはり同じ糸問屋をしている親子と知り合いになった。見るからに貧相でとても上等の糸を収められそうな風袋ではなかった。父親たちが交渉をしている間、その傍らで二人は直ぐ隣となり、話し始をめたのである。 この父親が見よう見真似で始めた糸問屋で、やむなく息子がその手伝いをしているという。父親は小林伴吉、息子は宗一である。伴吉はもともと八王子に住んでいたため、そこで糸工場や糸問屋の下働きをしていた。糸問屋の下働きといっても集荷や荷役が主で商売のことは何もやっていなかった。それでも息子が大きくなったということで独立して始めたのである。 八王子は当時生糸の一大集積地であった。養蚕は内陸部の群馬、山梨、長野などで大々的に行われていたため、それを横浜まで運ぶための中継地として栄えたのである。当然この地でも糸よりや反物など織物業も行われ、中間加工基地ともなっていたのである。八王子から横浜へは多摩川を使う水路と荷馬車で運ぶ陸路があった。陸路は後に日本の絹の道と言われるようになった。 当時生糸は日本の一大産業であり輸出の大半を占める花形であった。そしてその輸出港が横浜である。小林伴吉は八王子周辺の小さく養蚕をやっている農家から繭を集め、小さな生糸工場で糸より加工してもらい、それを横浜の売込問屋に持ち込んでいたのである。当然品は良くない。だが売込問屋も品数があれば商売になるので買ってくれるのである。値はいいように問屋に叩かれてしまうがそれでも幾分かの儲けは出ていた。何しろ自分で集め、自分で運び自分で売り込んでいたのだから、繭代と糸より代だけを払えば済んだからである。 そんな宗一と新造の話が続いていると宗一の父、伴吉が商談を終えて下ってきた。 「いやいや前よりも下がっちまった」と言いながら顔はにこにこしていた。新造の顔を見て会釈すると。自己紹介をしながら話がはずんだ。下げられたのに何故にこにこしていのかと訊ねてみると、安くされる原因を教えてもらえたからと喜んでいるというのである。新造はその教えてもらった内容を訊いて呆れてしまった。そんな知識はこの家業をするもので知らないものなどいなかったからである。呆れながらもその説明を少しすると、親子は揃って夢中になって訊いてきた。新造は少し得意になって品物の見定め方を訊かしてやった。 新造はこの親子がすっかり気に入ってしまった。謙った態度と尊敬される眼差しに自負心をくすぐられ、気をよくしたのだ。そして彼自身は彼らを気に入った本当の理由は自分が彼らを見下すことができたからとは気付いてはいなかった。 その後も彼らとは年に数度横浜で合うようになった。そして互いの親たちが息子たちに仕事を任せるようになると、二人は顔をあわせれば都合をつけては呑みにいく仲となっていった。 三 嫁取り 新造が商売にも慣れて父親がいなくても一人で商いを進められるようになってきたころのことだ。横浜の反物の問屋街を歩いていたときのこと、通りの向い端より反物を胸の前に抱えた品の良い若い女性がこちらに向かって歩いてくる。 彼はまだ離れていて顔も判らない距離なのに、ドキリとしている自分に気が付き、彼女を見つめた。一歩一歩近づいて来る毎に、その美しさが増してくる。彼女は見惚れている新造の視線に気付くこともなく通り過ぎていった。新造は遠ざかる彼女にどうして良いか判らぬまま、何かを思い出したような素振りをして、もと来た路を戻り、彼女の後を離れて付けていく。やがて彼女は古びた反物屋に入っていった。新造はその店の前まで行き、店名を確認した。 しかしここから先どうしてよいかは判らない。ここで彼女を待っているわけにもいかないだろうと思う。彼女が出てきたところで何と声を掛けて良いのか、とも思う。 そうしているところに通行人と肩が当たってしまった。新造は我に返ったような気持ちになって、必死に頭を下げた。通行人は怪訝そうな顔をして彼を見やり、そのまま何も言わずに立ち去っていった。その姿を確認した後、商売に行かなければと自分に言い聞かせながら未練の残るその場を立ち去った。絵に描いた夢のような出来事だったと自分に言い聞かせながらであった。 新造が一目ぼれしたのには彼が気付かない理由があった。『俺はお前たちとは違って身分が高い、もともと位が違うんだ』という気持ちが心の底にいつもある。その心は世間に向って自分を鼓舞するものを欲している。 その鼓舞したいものの中に彼にはない品位がある。身体から発する位が違うという見せつけだ。その品位を彼女に見たのだ。無論彼女は位や身分などの違いを意識などしていない。ただ育ちが品位ある環境であったのである。ごく自然に備わっていたのだ。 仕事を終えた新造は旅館に帰り父親の貫之(かんじ)に商売のあらましを話し終えた。しかし仕事の話が終るといつもの様な世間話ができない。昼間のできごとが気になって仕方ないためだった。その様子から貫之はさては女だと察しがついた。 「いい女でもできたのか」といきなり聞くと、 「いやあ、そんなんじゃねぇんだけど」と見破られていたことに驚きながらも、何の縁も結びつきもない出来事だったので、恥ずかしさはない。正直に話してしまうことにした。 「たまたま反物屋街の通りで見かけた人があんまり美人なんで見とれちまっただけさ」と笑って見せる。後を付けていったとは喋らず、ただ反物屋に入っていくまでを見ていただけだと話す。それを聞いた貫之は 「まぁ、横浜には美人が多いからなぁ」とにこにこしながら、他愛もない話を聞くように、つまみに箸を出していた。 新造がどんな美人かの話が終わると 「ところで、その反物屋はなんちゅう店だい」と聞いた。 「兼六屋」と答えると 「いゃやぁ」と大きな声を出して驚く、それは昔、貫之が反物も商いしていたころに世話になった店だという。貫之はその店の親父さんとの昔話を一頻りした後で、親父さんと話がしたくなったから、明日早速合いに行くと言い出した。ついでにその美人さんの話も聞いてこようというのである。新造はひょっとして、ひょっとするかもしれない気がしたが期待すると後が辛くなりそうなので、できるだけこの件は期待しないように努めた。 翌日は荷の入り具合はどうか、入った荷は品定めと自分で自分を急きたて、昨日の件は忘れるようにしていたがそうはいかなかった。無意識のうちに思い出し、期待して想像してしまうのである。父親の話を訊いて、がっかりした顔をどうやって隠そうかと冷静に考えるのだがいつの間にか、また期待した想像をしているのである。 漸く仕事が終わり、父親のいる部屋に何気ない素振りをしながら入る。貫之はにこにこしながら新造の顔を見る。新造はその顔を見て落胆だけはしないで済みそうだと思う。期待が膨らみ顔に出てしまうのをどう抑えようかと必死だ。 「まぁ、そこに座れ」と貫之がいう。そしておもむろに話をはじめた。 彼女のことは直ぐに分った。彼女の家とは昔からのお客さんだという。名は『よしの』次女で父親は官舎の事務員をしている。高級事務官ではないので暮らしは貧乏ではないが裕福でもない。本家はもと貴族で今は華族となっている。華族と父親ははとこの関係で縁は遠いという。 兼六屋の親父さんが乗り気になってくれ、父親に話してみるといってくれるという。新造が気を揉んだ結果は予想以上のものであった。 「とりあえずお前は津久井に帰って仕入の方をやれ、俺はもう暫く横浜に残って返事を待つから」というのである。そして何か分れば電報を打つことになった。新造は踊り出したい気分であったが必死になって押さえ込み、冷静な振りをした。その晩は興奮してろくに眠ることはできなかったが朝は爽快な気分で帰り仕度を始めた。 間もなくして、電報が届いた。見合いの日程が決まったので、それに合わせて仕度をして来い、というのである。当時の見合いは両家の確認の場である。当人同士はどうでもよく、互いの親とその嫁婿を確認することにある。父親同士が了解していれば婚姻はほぼ決まったようなものであった。新造の喜びは溢れんばかりだが浮かれてにやついた顔をすることはできない。矜持(きょうじ)の念が許さないからである。 見合いも無事に済み、ことはとんとん拍子にすすんだ。よしのは見合いの時も殆ど新造の顔を見ることはできず、漸く結納の時に見ることができた。酷く怖そうな顔ではなく安心したが気難しそうな面立ちが気にかかった。それでも自分を好いていてくれるという話は聞いていたので安心感は湧いた。 当時は横浜と津久井は大変深い関係にあったため、横浜で津久井を知らない者はいない。多くの物資が津久井を経由して来ていたからだ。身近な地域だったのである。よしのも不便さ以外大きな不安は感じてはいなかった。しかし気候の違いは体では知らない。 横浜は海に面する都会、津久井は山が控える村である。昼間の気温はさほど変わらなくても、朝晩の冷え込みがまるで違う。一般の嫁ならば家事に忙しく働くことで体が温まり、冷えを防ぐことができる。しかしよしのは大事にされ過ぎたために、家事も殆どやることはなく、体は冷え切ってしまう。 百姓家なら囲炉裏(ひじろ)で暖をとれただろうが商家では火鉢しかない。火鉢では体全体を温められず、少しずつよしのの身体を冷えが蝕んでいった 。
四 嫉妬
新造が嫁をもらうと、父親の貫之はしだいに商売を新造に任せるようになり、口も出さなくなっていった。体力の衰えを強く感じるようになっていたからである。しかしそのことが新造の歪曲した心情を世間から守っていた防波堤が崩れていったことになる。 その後も同業問屋の宗一との仲は続いていたが新造にはそのことに、しだいに嫌気が差し出してきていた。自分でもよく解らないが宗一と話をしていると嫌な気分になるようになったのである。 今までは目下と思えた相手から羨望の眼差しでみられる自分がいたがいつの間にかそれが居なくなっていたのだ。いつも高みから見るように相手にしていたのに、今ではそれがし辛くなってきた。周りがそれを認めない雰囲気を感じるようになってきたからである。 宗一親子は農家から自分たちで繭を集め、糸より工場に持ち込む。だから売込問屋の意向もそのまま伝えられる。伝えたからといって直ぐに良くなるわけではないのだがみなが少しずつ工夫してくれるようになるのである。何処かで工夫が上手く行くと、それを他の取引相手にも話して廻る。売込問屋でもその話をするから、問屋の方でも他の地方のやり方を聞いて教えてくれる。 もとより大もうけをしようと始めた商売ではないので、分け前を貰うという考え方であった。より屋でも農家でもその支払いはこと細かく説明して支払っていた。大手が手を出さない小さな農家やより家が相手だが徐々に信頼は厚くなり、品はよくなり数量も増えていく。評判がよいことで依頼する農家が増えてきていたのだ。 近頃では新造の問屋を凌ぐ勢いを見せていた。それでも宗一の腰は低く、合えば必ず新造さんのお蔭でという。商売人としては当たり前の言葉だが新造は本気でそう思ったことは一度もなかった。商人としての方便と思っていたのだ。しかし宗一は本心からそう思っていたのである。新造にはこれが自分と宗一の繁盛の違いを生んでいることなど、思いも及ばぬことだった。 知り合ったころのような格差がなくなった今、宗一の勢いは新造には妬みになってきていた。しかし新造はそれを妬みとは思いたくはない。身分の高いものが低いものを妬むなどありえないと、自分にいいきかせていたからだ。 新造の商売も順調に行ってはいた。時勢に乗っていたからである。しかし広がりが見えないのも事実であった。手を広げようと思っても広がらない。彼の商売には勘定の上手さや読みの鋭さはあったが情が通っていなかったのである。損得ばかりで商いをやっていると、相手も損得でしか応じてこない。少し分のいい話があれば直ぐにそっちに乗り換えてしまう。仕入先を増やしても、またどこかで他と取引されて、商いが広がらないのだ。 店の内でも上手くいかないことばかりが起きていた。これは使えそうだと思えた者は辞めていき、どうにもなんねぇと思う者が残っている。やめさせたくても伝で雇い入れた者ばかり、頼んだ手前、切り難い。 宗一と話せば愚痴を言いたいが面子を張ってしまってそんなことは言えない。宗一の店ではみんなよく働いてくれるというのだ。数を間違えれば正直に言ってくるし、品物が混ざってしまっても一生懸命選り分けてくれて有難いと言う。 そんなことは新造にとっては当たり前のことで、そんなことをさせないようにするのが店主の役割と主張しているのだ。そういうところがまったく噛み合わないから愚痴を彼には言えないのである。 店主の役割と偉そうに言う割に、実態は数を間違えても言って来ないことがちょくちょくで、それを強く叱れば二・三日は出てこない。その後に世話人に連れられて詫びを入れてくる。こちらも人手が欲しいから、そんな者でも仕方なくまた使ってやる。これを繰り返している有様だったのだ。自分の何かが悪くてそうなるなどとは考えず、ただ鬱積だけが溜まっていくのみだった。 そんな状態が宗一との間に続いていたときだった。ある事件が起きた。 五 老輩の口出し
中小の糸問屋の店主が集まる会合があった。新造が席に着くと宗一が隣に来て座ってよいかと聞く。鬱積の堪っている腹とは裏腹に笑顔を作って据わらせた。その会合は直ぐに終わりそのまま酒席となった。酒が入り少しずつ鬱積を被っていた糸がほどけて行く。すると宗一を『みんなよく働いてくれるからなどと心にもない嘘をつくな』と罵りだしたのだ。宗一は逆らわず頭を下げながら相手をしていた。そこえ隣の席に酒を注ぎに来た老輩がその話を横で聞いていて顔色を変え、いきなり話に割り込んできた。 「わしはあんたの親父さんをよく知っている。立派な人格者で人を罵ったり、バカにしたりは決してしなかった。それなのになんだお前は。他人はな、誰でも一つは自分よりも優れたものを持っているもんだ。そこを認めて、褒めてやるくらいの器量がなくてどうする。それを貶してばかりじゃあ主としての器がたりねぇ証拠だ」と怒りを抑えながら叱り付けてきたのである。しかし今の新造にはただの爺の怒りにしか聞こえない。 「あんたにはかんけぇねぇだろう」と大きな声で商売人にはあるまじき言葉を、遥か目上の人に使ってしまったのである。忽ち場はしらけ、宗一や周りの者が両者をなだめに入った。その新造の独り善がりの言葉に怒りを覚えた老人は彼に向って言った。 「お前さんがそんな了見だから、こんなに盛んなご時世なのに商売が伸ばせねぇんだ」丁度そのころ輸出が伸びて何処の問屋も取引を増やしていた。そして自分の席に戻り座りながら言った。 「所詮、一合の徳利には一升の酒は入らねぇ、お前さんには商売人としての器がねぇんだ」と言いながら憮然とした顔で新造を見た。それを聞くなり新造は抑えきれない怒りを感じて、両手を強く握り締めながら立ち上がった。宴席での侮辱に自負心は耐え切れないくらい傷付けられた。しかし周りからは白い眼の視線が一斉に飛び込んでくる。新造に反攻を許さない視線だ。誇りを傷つけられながら、 「帰る」としか言えず、その場を出て行った。 六 懲らしめ
暫くはただひたすらに歩いた。疲れを感じたころには怒りもいくらか癒えていた。歩みを緩めて呑み屋の並ぶ通りにはいった。少し呑み直してから帰ろうと思ったのである。魚臭い呑み屋で暫く一人で呑んでいると、奥の方で三人で話をしていたうちの一人が新造に近づいてきた。 「旦那、面白くねぇことがあった様ですね。」と含み笑いした顔で声を掛けてきた。だがそんな顔には頓着せず、 「ああ、」と応えた。丁度鬱憤話をしたかった新造である。その男に酒を呑ませて、話の相手をさせた。新造にとって都合のいいところだけを話しながら、あの老輩が如何に意地の悪い爺であるかと罵った。 だいぶ呑んだ後に、いくらか鬱憤も収まってきたので帰ろうとしたとき、男の方から話を持ち出してきた。そんなに意地の悪い爺なら懲らしめた方がいいと言うのである。ドブへ突き落とすくらいなら警察沙汰にはならないから、やりましょうかと言う。新造は迷ったがその程度なら、いい懲らしめになると思い、大怪我をさせないことを条件に承知した。僅かな依頼料でいいというので金を払って頼んでしまったのである。 三日後、あの老輩がドブに落ちて、風邪を引き寝込んでいるという噂を聞いた。その日、まもなくして通りを歩いていると、あの男がニヤニヤしながら待ち構えていた。 「どうです、うまくやったでしょ、旦那」 「ああ、上出来だ。」 「じゃあ、また一杯呑ましてくださいよ」と言う。新造は機嫌よく承諾しこの前の呑み屋で会うことにした。 会って呑みながら話をするうち、この男の素性と考えが読めてきた。男の名は与七、生まれも歳もわからないという。もの心の付いた時には浮浪児集団の中にいて、年長の子供に泣き役として使われていた。金を持っていそうな相手に、いきなり飛び出してぶつかり、倒れて大泣きをするのである。後は年長の子供が交渉して金をせびるのだ。与七という名はこの時、誰を呼ぶときも、ようー、ようーというので与七と呼ばれる様になったと言う。 成長して盗みや脅しをしていたが警察に捕まり、そこで軍隊に入れられた。丁度、日露戦争の始まりそうな時期だったので罰よりも兵役を優先していた。やがて戦争が勃発すると、最前線に送り込まれた。 突撃ラッパと共に突っ込んでいく。どう見ても生きては帰れそうもない。子供のときから愛情など感じることもなく、ただ生き抜くことだけを考えて育ってきた身の上だ。状況を見て生き抜く術を見出すことには長けていた。 国に対する思いも忠誠心もないのだから、軍隊に対する服従する気など毛頭ない。 だだここで逃げれば後ろから撃たれてしまい、進めば敵に撃たれる。この状況をどう生き延びるかだけを考えた。前の兵隊を盾にして走り、その兵隊が撃たれればその兵隊を盾にして伏せる。幸い上官が先に撃たれた。後は撃たれた振りをして伏せている。遥か先では隊はほぼ全滅、暗くなったところで、匍匐全身で逃げ帰った。そんな恐ろしい戦争の光景を楽しんでいるかのように新造に話すのだった。 「人の命なんぞ虫けらと一緒よ、旅順だろうが横浜だろうがよ」と新造に言う。それが与七の人生観なのだろうと新造は思う。そして 「おらぁよ、死人を見て怖えとか、気持ち悪いぃとか思ったこたぁねぇよ、あんなものぁ肉の塊よ、手を合わせるなんぞ意味がわからねぇ」と言うのであった。自分以外に大切なものが有ることを知らない与七には利益や理屈は理解できても、哀れや情けが理解できないのである。 そんな兵役を経験して帰り、その後は裏の仕事を請けて稼ぐようになっていた。人に情の欠片も感じない与七にはむいていた。憤懣やるかたなしの旦那を見つけては仕事を貰うのだ。そして与七はこうも言う。 「おらぁ受けた仕事をネタに逆に強請ったりは決してしねぇ、そんなことをしたら次から仕事が貰えなくなるからよぉ」と新造に言う。世間は狭いから、そんなことが知れ出したら、ここで食っていけなくなると説明するのだった。読み書きのできない与七は勝手の分かっているここ横浜でしか生きられないと知っているのだった。だから次からも安心して頼んでくれと言うのである。 新造は与七に小遣いを渡し、その日は機嫌よく帰ることができた。
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