「あー!」 僕は思わず立ち上がった。 電車が停まるはずの駅を思いっきり通過した。 なんでだ。この電車は各駅停車のはずだろ。運転手さーん。忘れたんですか。 「あんたのお母さんだよ」 「はぁー?」 オバサンが急に呟くように言うもんだから、とっさにチンピラのような切り返しをしてしまったじゃないか。 は? お母さん? 何言ってんだ、この人。 もう何がなんだか分からない。とりあえず、僕は座って目を閉じた。 とにかく次の駅で絶対に降りるぞ。早くここから逃げ出したい。 「アンタのお母さんだよ」 オバサンはさっきよりも、弱冠大きな声で言った。 だーかーらー。 「あなたが僕のお母さん?」 「そう」 どうせ、その後でまた、「嘘だよ」とか言って、みかん食いだすんだろ? 「・・・」 「・・・」 「・・・!?」 ねぇ、否定しないの? ねぇ! 嘘だって言ってくれよ。 僕の心は悲鳴を上げている。もう限界寸前だ。 「僕に母はいません」 「・・・」 「母は僕を生んだ時に亡くなっているんですよ」 本当ですよ。 「知ってるよ」 ならおかしいだろ。死んだ人間が僕の隣に座ってみかん食ってんのは。それにオバサンには悪いけど、僕の母さんはすごく美人だったんだ。 オバサンとは全く別の人種なんだよ。 もうなんか腹立たしい想いでいっぱいだ。何から整理していいのか分からない。 「ヒロくんには信じてもらえないかもしれないけど」 「どうして僕の名前を」 「お母さんだから」 しおらしく話すオバサン。話しが見えない僕。
まただ、また停車するはずの駅を通過した。やっぱり、この電車はおかしい。駅を通過し続けることも、乗客が僕たち二人しかいないことも。 僕はオバサンを見た。下を向いてみかんの皮を包むように両手で持っている。 本当にこの人が僕の母さんなんだろうか。 でも母さんが死んだのは、今から二十七年も前で、当時、母さんは三十歳だった。外見からして明らかにおかしい。 そりゃ、母さんが生きていて、元気に歳を取っていったのなら、そんな風になってしまうこともあるかもしれない。 でも母さんは三十歳で亡くなっている。死人が歳なんて取るのだろうか。 それか、もしかして実は母さんは、あの時、死んだんじゃなくて生きていて、僕と父さんを置いて出て行ってしまったのではないか。 「ヒロくんに会いたくて、天国から遊びに来ちゃったの」 バットで頭を殴られたような衝撃だ。 もうこれ以上は無理だ。理解できる範囲を優に越えている。誰だってそうでしょ? 「言ってる意味が全然、理解出来ません」 「ほら、私、ヒロくん生んですぐ死んじゃったじゃない?」 オバサンは自分の顔を指差しながら、軽い感じで話し始めた。僕は相槌を打つ余裕もなく話しを聞く。 「あの日から、ずっと天国からヒロくんの成長を見守ってきたの」 「保育園のヒロくん、小学校のヒロくん、飛んで社会人になったヒロくん」 「時には神様に土下座して、ヒロくんの姿をすぐ傍で見つめたこともあったのよ」 ほう。 「ゆみちゃんだったかしら、あの子、可愛かったわね。なんで別れちゃったの。もったいない」 大学の時に初めて付き合った彼女の名前だ。 「・・・本当に僕の母さんなんですか」 母さんは、じっと僕の目を見つめ返した。 さっきとは違う、重くない沈黙が流れる。でもやっぱり、何て言っていいのか分からない。 「ごめんね、急に」 「なんか・・・」 「こんな姿で」
「えっ?」 そっち? この流れで、そこを謝るのか。 「それよりさ」 僕には聞かなければいけないことが、たくさんある。どうして? と思うことばかりだ。 「それより、僕には今のこの状況が全く理解できないんだけど」 母さんはそうね、という相槌。 まずそこからだろ。容姿については、突っ込みどころ満載だが、この際そこは後回しだ。 「今まではヒロくんのことを、姿のない母さんとして見守ってきたわ。一緒に笑って、時には一緒に泣いて、あなたの成長を見てきた」 うん。 「でもね、最近のあなたを見てると、どうしても空から見守るだけじゃ、我慢できなくて・・・」 そうか。 「だから、母さん神様にお願いしたの。どうしても、あの子に会って話しをしたいって」 突然、母さんの顔が険しくなった。 「もちろん、最初は断られたわ。死んだ人間がそんなことは出来ない、不可能だって」 そりゃそうだろ。 「でも母さん、一歩も引かなかった」 神様を相手に? 「もう、すごい意地の張り合いよ」 興奮気味に話す母さん。 ごめん、もう想像が追い付かない。 「そこで、母さんから攻撃を仕掛けたの」 「・・・・」 「鍋を作るわって」 「は?」 母さんは隣に座っていたスーパーの袋を持ち上げて僕に見せた。 「ごめん。意味が分からないんだけど」 もう、ずっと。 母さんは、僕に顔を少し近づけると、嬉しそうに、 「天使仲間が話してたの、母さん聞いちゃったのよ」 ・・・。 「神様は人間が食べてる物を、いつも興味津津で見てるんだよねぇーって」 「特に冬場の鍋を囲んでいる家族を見つめるときの目には、鬼気迫るものがあったって」 母さんは人差し指を立て、 「しかも、味はキムチ」 窓から飛び降りていいかな? 「その話しを母さんが神様にしたら、イチコロだったわね。父さんを落とした時より簡単だったわね」 へー。 「即決でオッケイが出て、神様にキムチ鍋の材料費をもらって、あなたの元へやって来たってわけ」 なんだか、僕の聞きたかったことの九十パーセントは返って来なかった気がするけれど、そこをあえて掘り下げて聞く気力が、僕にはもう残っていなかった。 映画とかで観ると、こういう神秘的な奇跡のような出来事って、感動的で涙があふれ出しながら、語るイメージがあるんだけど。 「でね」 僕の複雑な想いとは裏腹に、母さんのマシンガントークは続く。 「死んだ頃の母さんに戻って、ヒロくんに会いに行ったら、息子がホレちまうんじゃないかって、神さんが言うもんだから」 神さん? 「うふふ。だったら現在の年取った姿で会いに行こうっていことで、二人とも納得してね」 母さん、楽しそうだなぁ。 「それで、この格好で来ちゃった」 できれば、あの頃のままの母さんに会いたかったよ、僕は。 目の前にいる母さを完全に受け入れるまで、僕には長い時間が必要だ。 「でも失敗だったわね」 「どうして?」 「だって、鍋の材料を先に買っちゃったら、材料が傷んじゃうじゃない」 そりゃそうだ。 「でも仕方ないわね」 「何しに来たの?」 僕は話しを大きく元に戻した。 このまま母さんの話しを聞いていたら、天国に行って神様と鍋を囲むことになりそうだ。 「僕は、生まれた時には、もう母さんがいなくて、写真の母さんしかしらない。しかも、母さんの写真はほとんど残っていないから、リビングに飾ってある、父さんと結婚した時の写真だけなんだ」 「そうね、母さん写真に写るのが、あまり好きじゃなかったから」 「僕は、ずっと母さんに会いたかった。学校の行事や、友達の家に遊びに行った帰り道」 母さんの役割みたいなものは、今もよく分からないけど、 「とにかく、今までたくさんあったんだ。なのに、なんで今頃になって現れたんだよ」 しかも、そんな姿で。 「そうね」 母さんは独り言のように、何度も呟いていた。
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