だけど今日はいつもと少しだけ違った。何かが違う。そんなリアルなことが全く浮かんで来ない。それどころか、あらゆるどんなことも頭の中に浮かんでこない。乗客はみんな降りてしまって、僕一人になっても僕は立ち続け、ホームを去り、会社へ向かう人々の背中をじっと見ていた。 やがて僕の目の前で扉が閉まる。 ここから先の駅は何もない田舎だ。乗ってくる人は僅かしかいない。 電車が動き出しても、僕はその場に立ち尽くしたまま。車内の少ない乗客はそんな僕になど全く興味がない。それぞれ本を読んだり、イヤホンで音楽を聴いたり、ゆっくり流れる景色を見ているのか、考え事をしているのか区別がつかない人ばかりだ。 ついにやってしまった。 僕は、初めてあの駅で降りなかった。 もちろん休日などは普通に通過してきたから、未開の地ってわけじゃないけど、スーツ姿で会社に行くのに通過したのはこれが初めてだった。
これから僕の中でたいしたことをしでかそうとしているのにも関わらず、僕は冷静で、僕の心はそんなことには無関心みたいな感じがした。不安も全くない。いや、まだ何も起こってないから、後からじわじわ来るのか。 今なら次の駅で降りて、反対方向の電車に乗れば、僕の「たいしたこと」は、悲しいくらいに何事もなかったように会社に出勤出来るが、その選択肢は僕の心の中には微塵もない。かといって、これからどうするかも浮かんでこない。 とりあえず座るか。 先ほどの賑わいが嘘のように閑散とした車内を軽くさりげなく見回し、一番人が少ない、奥の座席にゆっくりとさりげなく腰を下ろした。 今まではきちんと足を揃えて座っていたけど、今はだるい。酔っぱらったオヤジのように若干うなだれて座った。何だかひどく疲れていた。大きく深い溜息。 周りにどんな人が座っているかは分からない。とにかく人の目なんて気にする余裕もないくらい僕は疲れていた。このまま一生、この状態で電車に揺られてどこまでも行きたい気分だ。 ぼくはポケットから携帯電話を取り出すと、電源を切った。そして一度ポケットに閉まったけど、思い直したようにそれを取り出し、電池パックを抜き取り、鞄の中にそのまま適当に入れ込んだ。これで僕と会社をつなぐ接点は一応なくなった。まさか僕の福岡の実家に連絡が入ることはないだろう。とにかく今はそんなことは一切考えたくない。ただ、電車の流れに身をまかせ、電車色に染められたい。 朝から雨で、嫌な天気だったのに、いつの間にか雨は上がって車内に暖かな日差しが差し込んでいた。 少し離れて斜め前には、若くて優しそうなお母さんと小さな男の子。男の子は今朝見たアニメ番組の話しを一生懸命話しているのを、優しく頷きながら聞くお母さん。いいもんだな。 普通列車で閑散としていて、おまけに暖かな春の日差しが差し込んでいる。このシチュエーションは眠りを誘うシチュエーションベスト5に必ず食い込んでくる場面ではないだろうか。 眠たい。たとえ口を開けてよだれを垂らし、電車の揺れにまかせて車内を転げ回ったとしても、ものすごく眠たいのだ。今の僕に不安はない。一つだけ引っかかるのは空模様くらいだぜ。
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