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作品名:高架下から見た星 作者:えみ

第5回   5
朝から外に出るのは久しぶりだった。まだ春になりきれていない冷たい風が頬に当たる。もう一枚、上着を羽織ってくればよかったと、後悔したが、もう後戻りは出来なかった。今、戻ってしまうと、今日は二度と外へは出れないような気がした。
 子供たちが、道路を占領して、お祭り騒ぎで学校へ向かっている。時折、駅へ向かうスーツに身を包んだ大人たちとすれ違った。何も感じなかった。焦りや苦しみや妬みも。ましてや憧れや羨む気持ちは皆無。何だか彼らが、少しだけ哀れな生き物に見えた。しかし、彼らの目からは、僕がそういう風に映っているのかもしれない。そんな人々も、風のように僕の視界を流れて行った。
 いつも利用しているコンビニの前を通り過ぎて、出版社までの道を、早く遅くもない速度で歩き続けた。このままだと予想していた通り、三十分程度で出版社に着くはずだ。
 僕はふと立ち止まった。ここへ来て、大きな問題が思い浮かんだ。どうやって彼女を探せばいいのだ? 僕は携帯を持っていないし、彼女の携帯の番号が書いてある名刺も、家に置いて来てしまった。今から取りに戻るか? いいや、それは無理だ。それに、電話を掛けたところで声が出ないと、いたずら電話と間違えられてしまう。声を出そうと息を出してたら、変態が電話を掛けてきたと思って切られてしまうかもしれない。困ったな。
 とにかく、彼女のいる編集部まで行ってみよう。運が悪くなければ、彼女はそこにいるに違いない。僕は横に建っているビルのガラスに映った自分の姿を確かめた。怪しい人間ではなさそうに見える。だが、声を掛けられたらアウトだ。身振り手振りで説明しようとすればするほど、不審者になってしまうだろう。軽く深呼吸して決意を固める。とにかく行ってみよう。後は成るように成る。僕はただ、原稿を届けにきただけじゃないか。現行の入った封筒もちゃんと持っているし、僕はこの出版社の作家なのだ。訳の分からない理由だったが、それは僕に勇気をくれた。
 
 出版社は三年前と変わらず、そこに建っていた。僕が初めてここへ来た時の記憶が、徐々に蘇ってきた。そういえば、入口は少し古ぼけた自動ドアだったなとか、妙に細長いビルだったなとか。ただ、白かった壁が少しくすんでしまったような気がする。僕は今、緊張していて、しれくらいしか目に入って来ない。腰にロープを巻いて、タイヤを運んでいるくらい体が前に出なかった。これから数分後のことを、頭が勝手に想像して、僕を深い谷底に突き落として行く。
 僕はここまで落ちてしまっていたのか。ごく普通の人間ならなんてことないのだろうに。どうして僕はこんなにも物事を深く重く考えてしまうのだろうか。暗い奴だ。

 自動ドアが僕を除外するような音を立てて開いた。僕はなんともない冷静さを装ってビルの中へ入った。ビル自体は小さく縦長いので、一回のロビーには必要な物しかない。トイレと入口を入ると、目の前にあるエレベーターくらいだ。
 まだ午前中なので人影は全くない。出版社は普通の会社と違って朝が遅い。こんな時間に会社にいるのは徹夜組で、昨日から残っている者ばかりだろう。
 僕はエレベーターに乗り、案内板に従って、編集部のある三階のボタンを押した。エレベーターもビルに合わせて小さいので、五人も乗れば息苦しくなるくらいだ。その真ん中に僕は一人で、棒のように突っ立っている。
 ふと思った。なんで僕はこんなところにいるのだろうと。なぜだか分からないが、階の表示から目が離せなかった。エレベーターが上がるにつれ、僕の心拍数も上がっていく。これ以上、上がると逆に心臓が止まってしまうんじゃないかと思えるところで、エレベーターの方が先に三階に止まった。その間がずいぶん長いものに感じられた。僕があまりにも出ようとしないので、待ち切れずにエレベーターのドアが閉まりかけた。僕は慌てて、「開」のボタンを押して、外に飛び出した。やはりこのフロアにも人の姿は見当たらなかった。


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